「石狩湾新港」の版間の差分

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2003年にはリサイクルポート、港湾物流特区の認定を受け、ハード・ソフト両面から、札幌圏の臨海部における生産・物流拠点として利便性の高い地域形成を目指している。
現在は、韓国と繋がる外貿定期コンテナ航路が就航しており、[[小樽港]]とともに札幌圏の海を経由した物資流動の要となっている港湾であるが、太平洋側に位置する[[苫小牧港]]、[[室蘭港]]、[[釧路港]]に比べ港湾取扱貨物量が少ないのが現状であり、太平洋側と日本海側の間で物流量に偏りがある。
 
日本海航路の整理縮小により港湾荷役の伸びが鈍化しているため、地震等の有事の際、太平洋側の港湾だけに依存していては道央圏への物資供給に大きな不安が残るものとして、市民生活等に欠かせない物資(エネルギー等)は石狩湾新港での取り扱いを増やすよう官民一体で取り組んでいる。現在、太平洋側と日本海側の港湾の均衡ある発展を模索している。
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<!--*札幌圏の港湾としては[[小樽港]]が天然の良港として古くから発展していたが、札幌との間は山地が断崖絶壁で海へ落ち込む急峻な地形で、1本の道路([[国道5号]])と鉄道([[函館本線]])でのみ結ばれる。現在はこれに[[札樽自動車道]]が加わるが、港湾と後背都市部を結ぶルートとしては依然脆弱である。--><!--これは歴史ではない-->
*より札幌に近い石狩湾中央部には広大な[[未利用地]]があり、明治年間よりファンゲント、C・S・メーク、岡崎文吉、[[広井勇]]らにより港湾建設構想が立てられもしたが、遠浅の砂浜のため、当時の港湾[[土木技術]]ではここに大きな港湾をつくることはかなり大がかりな工事となり、実現は困難だった。
*1936年 旧北海道庁の技師伊藤長右衛門と中村廉次により、[[銭函]]浜に外港を設けて新川河口を掘削し、工業地帯を造成する計画案が立てられ、1940年には政府の調査費もついて「石狩工業港ならびに石狩工業地帯造成計画」がつくられたが、第二次世界大戦の戦局悪化により実現には至らなかった。
*戦後、伊藤案を元に小樽市により「銭函副港計画」(1959年)や「札樽港計画」(1964年)が持ち上がるが、潮流や建設条件などの検討を進めた結果、計画地は現在の石狩湾新港の位置へ移動。
*1970年 「第3期北海道総合開発計画」が閣議決定され、石狩湾新港地域開発は国家プロジェクトとして始動。