「四カ年計画」の版間の差分

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これに続くものとして1936年8月にヒトラーは第二次四カ年計画の覚書の作成を開始した。そして1936年9月9日の[[ニュルンベルク党大会]]において第二次四カ年計画が発表された。こちらが一般に四カ年計画と呼ばれるものである。四カ年計画覚書の中でヒトラーは「経済の課題はドイツ民族が自己主張できるようにすること」「ドイツ経済は以降4年間のうちに戦争に耐えうる経済になっていなければならない」「[[ドイツ国防軍]]は四年間で戦場に投入可能なレベルになっていなければならない」と書いている。[[代替財]]・原料生産・貿易統制を推進して自給自足経済の確立を目指す内容そのものであった<ref name="総統国家119">『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』119ページ</ref>。
 
ヒトラーはこの四カ年計画の全権責任者にはナチ党幹部[[ヘルマン・ゲーリング]]を据えた。ヒトラーの命を受けてゲーリングは12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」と語り<ref name="murase366">村瀬、366p</ref>、ドイツの外国資源への依存を減らし、自給自足経済の確立を急いだ。このため非採算的な[[人造石油]]、[[人造繊維]]、[[合成ゴム]]の生産拡充が行われ<ref name="murase366"/>、また軍備支出を大幅に増やしていった。結果、国家負債は激増し、国民の生活水準の成長率も半減したが、戦争経済体制の構築は進んだ<ref name="ヒトラーと第三帝国58">リチャード・オウヴァリー著『ヒトラーと第三帝国』(河出書房新社)58ページ</ref>。
 
この四カ年計画において実質的な実権者はゲーリングと親密な関係にあった[[IG・ファルベンインドゥストリー|IG・ファルベン]]の[[カール・クラウホ]]([[:en:Carl Krauch|Carl Krauch]])であった。計画の役員もIG・ファルベンの社員で占められていた。そのため計画の全投資の三分の二はIG・ファルベンに割り当てられている<ref name="ドイツ史3236">『ドイツ史〈3〉1890年~現在 』(山川出版社)236ページ</ref>。1938年からは実質的にIG・ファルベン計画となっていた<ref name="総統国家120">『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』120ページ</ref>。
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*[[成瀬治]]、山田欣吾、[[木村靖二]]著『ドイツ史〈3〉1890年~現在』([[山川出版社]]) ISBN 978-4634461406
*阿部良男著『ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>』(柏書房)ISBN 978-4760120581
*[[村瀬興雄]]編 『ファシズムと第二次大戦 世界の歴史15』([[中公文庫]]、1975年)ISBN 978-4122002289
 
=== 出典 ===