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== 地方行政 ==
プロイセン王国は12の州([[:de:Verwaltungsgliederung Preußens|Provinz]])から成り立っており、州は最大の地方行政単位である。長官は州総督(Oberpräsident)で州の行政に対する全責任を負い、内務大臣に直属する。単に国家行政
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[[画像:Ac.prussiamap3.gif|thumb|400px|left|プロイセンの領土拡大]]
[[1860年]]に[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が即位した当時、議会では自由主義勢力が伸長しており、国王の軍に対する最高指導権さえ否定されて、退位寸前に追いやられたほどだった。しかし[[パリ]]駐在プロイセン大使であった[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が呼び戻されて[[ドイツの首相#呼称と歴史|宰相]]となり「[[鉄血政策]]」を唱えると、保守派が勢力を盛り返し、プロイセンは再び軍事力による大国化へと進んだ。
プロイセンは[[1864年]]に[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]によって[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|シュレスヴィヒおよびホルシュタイン公国]]を獲得した後、[[オーストリア帝国]]と軋轢を生じたが、ビスマルクの巧妙な外交によって他国の介入は防がれた。プロイセンは[[1866年]]の[[普墺戦争]]に勝利して[[北ドイツ連邦]]の盟主となり、[[ヘッセン選帝侯国|ヘッセン]]、[[ナッサウ公国|ナッサウ]]と[[ハノーファー王国|ハノーファー]]を獲得した。続く[[1870年]]から[[1871年]]までの[[普仏戦争]]にも参謀総長[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|大モルトケ]]らの活躍によって勝利し、エルザス=ロートリンゲン(フランス語では[[アルザス・ロレーヌ]])をフランスから奪取、またプロイセン国王ヴィルヘルム
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