「プロイセン王国」の版間の差分

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== 地方行政 ==
プロイセン王国は12の州([[:de:Verwaltungsgliederung Preußens|Provinz]])から成り立っており、州は最大の地方行政単位である。長官は州総督(Oberpräsident)で州の行政に対する全責任を負い、内務大臣に直属する。単に国家行政みならず、州内の地方自治体をも管理し、プロイセンの大臣を除いて最も政治的に重要な地位にある。各州は[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]を除いて2つ以上の県(Regierungsbezirk) に分かれ、全プロイセンに34県(1906年以降35県)が存在する。県知事(Regierungspräsident)は純粋に中央政府の行政官であり、地方自治体とは無関係である。県の全般にわたる重大な行政は県知事と県の上級参事官(Oberregierungsrat)、参事官(Regierungsrat)によって構成される委員会(Kollegium)で討論され、独裁されずに議論により集団的に決定される。県知事は県の一般行政を担当し、県の官吏に対して賞罰権をはじめとする個人的な権威をもち、県およびその部局の決定に対して拒否権をもち、とくに郡長(Landrat)を監督した。郡長は郡議会の推薦者を王が任命し、国家行政の上では直接には県知事の、最後は州総督の監視下におかれる。彼は地方自治に関する問題では地方住民と密接な関係があり、その代表者でもある。しかしまた内相によって派遣された中央政府の役人としては、郡の自治体を監視し、警察、軍隊関係の事務処理、国家の直接税徴収などにあたる<ref>村瀬興雄『ドイツ現代史』東京大学出版会、1980年、38頁-95頁</ref>。
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[[画像:Ac.prussiamap3.gif|thumb|400px|left|プロイセンの領土拡大]]
[[1860年]]に[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が即位した当時、議会では自由主義勢力が伸長しており、国王の軍に対する最高指導権さえ否定されて、退位寸前に追いやられたほどだった。しかし[[パリ]]駐在プロイセン大使であった[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が呼び戻されて[[ドイツの首相#呼称と歴史|宰相]]となり「[[鉄血政策]]」を唱えると、保守派が勢力を盛り返し、プロイセンは再び軍事力による大国化へと進んだ。
プロイセンは[[1864年]]に[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]によって[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|シュレスヴィヒおよびホルシュタイン公国]]を獲得した後、[[オーストリア帝国]]と軋轢を生じたが、ビスマルクの巧妙な外交によって他国の介入は防がれた。プロイセンは[[1866年]]の[[普墺戦争]]に勝利して[[北ドイツ連邦]]の盟主となり、[[ヘッセン選帝侯国|ヘッセン]]、[[ナッサウ公国|ナッサウ]]と[[ハノーファー王国|ハノーファー]]を獲得した。続く[[1870年]]から[[1871年]]までの[[普仏戦争]]にも参謀総長[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|大モルトケ]]らの活躍によって勝利し、エルザス=ロートリンゲン(フランス語では[[アルザス・ロレーヌ]])をフランスから奪取、またプロイセン国王ヴィルヘルム1世は[[1871年]]に[[ヴェルサイユ宮殿]]で[[ドイツ統一|統一ドイツ]]の皇帝となった。しかし、プロイセン国王を兼ねるヴィルヘルム1世は、[[ドイツ]]によるプロイセンの併合だと感じ、プロイセンを尊重して皇帝になることを強く拒み、抵抗を示していた。それでもヴィルヘルム1世は、ビスマルクらの後押しもあり、抵抗しつつもプロイセン王と[[ドイツ皇帝]]を兼ねた。
 
=== 解消 ===