「上杉景勝」の版間の差分

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[[天正]]3年([[1575年]])、名を長尾顕景から上杉景勝(一説では長尾景勝)に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた。同年の『上杉家軍役帳』によると総勢375人の軍役を負担し、謙信への尊称であった「御実城様」と似た呼び名である「御中城様」として上杉一門衆筆頭に記載される。
 
天正4年([[1576年]])、謙信の能登平定ののちに、相模の[[後北条氏|北条氏]]から人質として送られてきて謙信の養子となった義兄(義弟とも)・[[上杉景虎]]とともに能登の支配を任せられた<ref name="kenshingunki">「謙信軍記」</ref>。
 
天正6年([[1578年]])3月13日、謙信が死去すると、上杉景虎との相続争いが勃発する([[御館の乱]])。これは謙信が後継者を指名しないで急死してしまったことや、越後の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいると言われる。3月24日、いち早く[[春日山城]]本丸と金蔵を占拠した景勝側が有利となり、春日山城下の御館([[上杉憲政]]の屋敷)に立て籠もった景虎と争う。