「江口の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
22行目:
== 開戦までの経緯 ==
=== 三好氏の内部確執 ===
晴元の政権下で[[三好氏|三好家]]の総帥としての地位を着実に固めてゆくにつれて、[[細川晴元]]に深く信頼される一族の長老・三好政長の存在は、長慶にとって無視できなくなってきた。天文17年([[1548年]])[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]に摂津[[国人]][[池田信正]]が晴元の屋敷で切腹させられた一件も政長の讒言が疑われていた。
 
[[画像:三好長慶.jpg|thumb|left|120px|三好長慶像]]
 
天文17年[[1548年]])88月12日 (旧暦)|8月12日]]、長慶は細川晴元の近習(田井源介、平井丹後守など)に対して三好政長・[[三好政勝|政勝]]父子の誅殺を願い出た。一族の統率を乱す不届者を除くというのが表向きの理由だった。しかし、この長慶の申し出は晴元には聞き入れられなかった。
 
そこで長慶は、晴元に敵対する[[細川氏綱]]の陣営に転属。岳父である[[河内国|河内]][[守護代]][[遊佐長教]]らに出兵を求めつつ、自身も軍事行動を開始した。これに対して[[近江国|近江]]の[[六角定頼]](細川晴元の岳父)はこの行動を「謀反」とする一方で、晴元は[[和泉国|和泉]][[守護]][[細川元常]]、岸和田兵部大輔、[[紀伊国|紀伊]]の[[根来衆]]らに出兵を求めた。