「池田城 (摂津国)」の版間の差分

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[[File:池田城8.jpg|thumb|150px|土塁跡]]
次いで[[永正の錯乱]]に端を発した[[細川氏]]の内紛で[[細川澄元]]派に属していた[[池田貞正]]は、[[永正]]5年([[1508年]])に反対勢力であった[[細川高国]]の攻撃をて落城、貞正は自殺して子の[[池田信正|信正]]は逃亡した。発掘調査で炭層、焼土が厚く堆積していることが確認されている為、池田城は甚大な被害をうけたと見受けられている。その後、[[享禄]]4年([[1531年]])の[[大物崩れ]]でも高国の攻撃をた。この戦いの後城の復興で主郭の堀を広げ周りに土塁を設け、南側にも連郭状の曲輪を設け防御陣地を広げていった。[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])、[[享禄・天文の乱]]で2月に[[一向一揆]]に敗れて[[堺市|堺]]から[[淡路国|淡路]]へ逃れていた[[細川晴元]]が4月にこの城に入城、畿内へ戻った。
 
[[永禄]]11年([[1568年]])、[[池田勝正]]は[[織田信長]]に抵抗したが織田軍の攻撃を受け落城した。しかし勝正は抵抗したお咎めを受けなかった上に逆に評価され、信長から6万石を賜って家臣となった。池田城は信長の持つ「[[虎口]]」などの城郭のノウハウを取り入れてもっとも拡張した。池田城の虎口は城内に二度曲げ、それ以外に東側に横堀を二条掘削し、大規模な[[曲輪]]を設け城域を拡張した。