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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 内藤学文
{{武士/生誕|[[寛延]]4年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]([[1751年]][[11月3日]])}}▼
{{武士/戒名|勇信院殿仁誉宗英智山大居士}}▼
| 別名 =
{{武士/墓所|[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]の光台院}}▼
| 諡号 =
{{武士/官位|従五位下、右近将監、[[山城国|山城]]守、[[丹波国|丹波]]守}}▼
{{武士/幕府|[[江戸幕府]][[大坂加番]]}}▼
{{武士/藩|[[三河国|三河]][[挙母藩]]主}}▼
{{武士/氏族|[[紀州徳川家|紀州徳川氏]]→[[内藤氏]]}}▼
{{武士/父母|父:[[徳川宗将]]、母:[[吉田意安]]の娘・清信院<br />養父:''[[内藤政苗]]''}}▼
| 主君 =
{{武士/兄弟|[[徳川重倫]]、'''内藤学文'''、[[松平頼興]]<br />[[松平頼謙]]、[[松平忠功]]、[[三浦為脩]]<br />[[松平忠和 (桑名藩主)|松平忠和]]、[[安藤道紀]]、[[阿部正由]]}}▼
{{武士/妻|正室:[[内藤信興]]の娘・政子(秀子)<br />継室:[[森忠洪]]の娘・政子(千代子)}}▼
{{武士/子|養子:''[[内藤政峻]]''}}▼
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| 特記事項 =
}}
'''内藤 学文'''(ないとう さとふみ)は、[[三河国|三河]][[挙母藩]]の第2代[[藩主]]。挙母藩内藤家6代。初名は'''政養'''(まさもち)だが、[[天明]]2年([[1782年]])に'''政文'''と改名する。
== 生涯 ==
寛延4年(1751年)9月16日、[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩]]主・徳川宗将の四男として生まれる。[[明和]]元年([[1764年]])9月28日に挙母藩の初代藩主・内藤政苗の[[養子]]となる。明和3年([[1766年]])11月26日、政苗の[[隠居]]により[[家督]]を継いで第2代藩主となり、12月に従五位下・右近将監に叙位・任官する。
この頃の挙母藩は財政難や家臣団の対立などで苦難な状況にあり、大雨や[[矢作川]]洪水などが相次ぎ、明和5年([[1768年]])には水害で[[年貢]]収入が大減少するに至った。明和7年([[1770年]])7月には[[江戸]]屋敷が焼失した。このため、矢作川や[[安永川]]の改修に尽力した。[[安永]]5年([[1776年]])8月には[[大坂]]加番に任じられた。[[天明]]7年([[1787年]])には[[藩校]]・崇化館を創設する。もともと4男で相続権が無く、部屋住みの身分だったときに学問が好きになっていたため、学問に対する熱意が深く、藩校を創設した学文は自ら講義を行なったこともあったという逸話もある。特に儒学に理解があり、そのため質素倹約や孝行に尽くしたといわれる。
寛政6年(1794年)6月10日に江戸藩邸で死去。享年44。実子は全て早世していたため、
{{先代次代|[[挙母藩|内藤氏(挙母藩2代)藩主]]|1766年 - 1794年|[[内藤政苗]]|[[内藤政峻]]}}
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