「川岸良兼」の版間の差分

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10歳から[[ゴルフ]]を始め、ジュニア時代からゴルフの才能を発揮し日本大学に進む。ゴルフ部では[[鈴木亨]]が主将、川岸が副主将を務め、在学中に日本アマ、日本学生など数々のタイトルを獲得。
 
[[1989年]]にプロ入り。翌[[1990年]]の「[[静岡オープンゴルフトーナメント|静岡オープン]]」でツアー初優勝。さらに「関東オープン」と「ABCラークカップ」([[ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント|ABCラークカップ]]の当時の名称)にも優勝して、年間3勝を挙げる。[[1991年]]にも「[[ポカリスエットオープンゴルフトーナメント|ポカリスエットオープン]]」で優勝。新人選手としての目覚ましい躍進ぶりに加えて、大柄な体格から放たれる豪快なドライバーショットなどから“怪物”と呼ばれた。同じ日本大学出身の後輩[[丸山茂樹]]が、「入学して初めて川岸さんのゴルフを間近で見て、絶対に敵わないと思った。」などと語るほどの才能の持ち主であり、次代の男子ゴルフ界を担うスター候補の筆頭に挙げられるなど将来を嘱望されていた<ref>『バフィ-』CBSソニー出版 1991年1月号 25頁</ref>。
 
しかし、その後スランプに陥り、それ以後のツアー優勝は、[[1995年]]の[[JCBクラシック仙台]]と[[1999年]]の「[[フィリップモリス]]・チャンピオンシップ」のみとなる。
 
[[2001年]]には日本ゴルフツアーのシード権(賞金ランキング70位以内)を失うなど低迷。
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アメリカツアーにスポット参戦したこともあったが思うような成績があげられず帰国。
 
[[2004年]]の[[ダンロップフェニックストーナメント|ダンロップ・フェニックス選手権]]で、優勝した[[タイガー・ウッズ]]と8打差の単独2位に入った。[[2005年]]は、「[[つるやオープンゴルフトーナメント|つるやオープン]]」、「[[三菱ダイヤモンドカップゴルフ]]」、[[日本オープンゴルフ選手権競技|日本オープン選手権]]で2位となる。
 
[[2007年]]には年間賞金ランク102位で、5年ぶりにシード権を失う。
 
私生活では[[1992年]]に同じプロゴルファーの喜多麻子と結婚。娘2人もゴルファー。次女は[[2009年]]の全国中学校ゴルフ選手権で優勝、翌週に主催者推薦で初めて出場したプロトーナメントで16位に入った。
 
== 脚注 ==
<references/>