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[[アゾフ海]]沿岸の[[タガンログ]]出身。祖父と父親は[[フィドル]]奏者であった。5歳で音楽教育を始め、1年後に初めて[[ヴァイオリン]]を弾いた。その後[[ウィーン音楽院]]に[[留学]]し、[[ヨーゼフ・ヘルメスベルガー]]率いる[[ヘルメスベルガー四重奏団]]に第2ヴァイオリン奏者として入団。[[ヴィオラ]]奏者は[[ジギスムント・バハリヒ]]、チェリストは[[ダーヴィト・ポッパー]]であった。また、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]から[[ヴァイオリン協奏曲_(チャイコフスキー)|ヴァイオリン協奏曲]]を献呈された。これは、ペテルブルク音楽院教授[[レオポルト・アウアー]]がその作品を「演奏不可能」として、初演のバイオリン独奏を拒絶したため、1881年12月4日、[[ウィーン]]で、ブロツキーの独奏、[[ハンス・リヒター_(指揮者)|ハンス・リヒター]]指揮で初演を行なったためである。
 
[[1883年]]アメリカへ渡った[[:en: Henry Schradieck|ヘンリー・シュラディーク]]の後任として、[[フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ|ライプツィヒ音楽院]]より招かれ[[教授]]に就任する。また[[1884年]][[ブロツキー弦楽四重奏団]]を[[オトカル・ノヴァーチェク]]、[[ハンス・ジット]]、[[:en: Leopold Grützmacher|レオポルド・グリュッツマッヒャー]]らと結成。翌年には新メンバー[[ハンス・ベッカー]]、[[ユリウス・クレンゲル]]を迎え、[[ライプツィヒ]]の室内楽シーンに一時代を築いた。

[[1891年]]ブロツキーが[[ライプツィヒ]]を去った後も、[[アルノ・ヒルフ]](ゲヴァントハウス弦楽四重奏団からブロツキー弦楽四重奏団へ移籍)により活動は継続されたが、[[1898年]][[ユリウス・クレンゲル|クレンゲル]]以外のメンバー全てが退団することになり、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス弦楽四重団]]の首席者で構成される[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽|ゲヴァントハウス]]弦楽四重奏団統合吸収された。
 
ブロツキーは、同オーケストラ・メンバーではなかったが、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団|ゲヴァントハウス]]弦楽四重奏団で活躍したのは、この経緯による。
 
[[ライプツィヒ]]時代、ブロツキーが[[クリスマス]]の晩餐会を催した席にて、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]とチャイコフスキー、[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]が出逢い、特にチャイコフスキーとグリーグの間で互いへの尊敬と友情が芽生えるきっかけとなった。