「板倉重種」の版間の差分
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| 氏族 = [[板倉氏]]
| 父母 = 父:[[板倉重矩]]、母:[[小出吉親]]の娘<br />養父:''[[板倉重直]]''
| 兄弟 = [[板倉重良|重良]]、[[板倉重澄|重澄]]、'''重種'''、
| 妻 = 正室:[[加藤直泰]]の養女([[一柳直次]]の娘)
| 子 = '''[[板倉重寛|重寛]]'''<br />養子:''[[板倉重宣|重宣]]''、''相良頼福正室
| 特記事項 =
}}
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最初は叔父の[[旗本]][[板倉重直]]の下に養子に出されていたが、長兄[[板倉重良|重良]]の[[廃嫡]]と次兄[[板倉重澄|重澄]]の早世により、延宝元年([[1673年]])の父の死後烏山板倉家を相続する。
[[延宝]]5年([[1677年]])、[[奏者番]]兼[[寺社奉行]]に任命、延宝元年([[1680年]])9月に老中に抜擢される。同年、4代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家綱]]が死去し異母弟の5代将軍[[徳川綱吉]]に仕えた。翌[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])2月に1万石加増で武蔵岩槻藩に転封、8月に綱吉の世嗣[[徳川徳松|徳松]]付きの西の丸老中
隠居前から領地奉還を幕府に願出ていたが、祖先の功績により許され、天和3年([[1683年]])の隠居と同時に5万石のうち3万石を子の重寛、2万石を甥の重宣(後に[[上総国|上総]][[高滝藩]]主)に分地した。宝永2年(1705年)、65歳で死去。
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