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1951年に、アフリカにおける植民地帝国の維持を望んだ[[アントニオ・サラザール]]政権のポルトガルの植民地法の改正により、ポルトガルの全海外植民地は法的に植民地からポルトガルの海外州となったが、その後も各植民地の統治の実態に大きな変化はなかった。[[アミルカル・カブラル]]によればポルトガル領だった植民地時代のギニア、[[アンゴラ]]、[[モザンビーク]]、各植民地の非識字率は99%に達していた<ref>アミルカル・カブラル/白石顕二、正木爽、岸和田仁訳「ギニア・ビサウの現実と闘争」『アフリカ革命と文化』亜紀書房、1980年10月。p.19</ref>。
 
[[ファイル:StampStamps Amílcarof CabralGermany (DDR) 1978, MiNr 2293.jpg|thumb|left|180px|[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]]の創始者[[アミルカル・カブラル]]の切手。]]
[[1956年]]には[[アミルカル・カブラル]]が[[クレオール]]の[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]](PAIGC)を設立し、以降PAIGCによる独立・民族解放運動が始まった。当初カブラルは穏健な独立運動を構想していたが、1959年8月3日にビサウで[[ストライキ]]を起こした港湾労働者が[[ポルトガル軍]]によって多数殺害された[[ピジギチの虐殺]]以降は方針を変え、農村を根拠地にした武装[[ゲリラ]]闘争による独立を目指した。1963年にはPAIGCが[[ティテ]]のポルトガル軍基地を襲撃し、[[ギニアビサウ独立戦争]]が勃発した。[[ソビエト連邦]]や[[キューバ]]、[[ギニア]]などの支援を受けたPAIGCと、[[アメリカ合衆国]]の支援を受けたポルトガルの[[エスタード・ノーヴォ]]政権の間で[[ポルトガルの植民地戦争|植民地戦争]]が続いた。