「一色持範」の版間の差分

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持範には旧[[若狭国|若狭]]・[[三河国|三河]][[守護代]]で満範に滅ぼされた[[小笠原氏]]の残党が支持勢力として付いたらしいが、義貫側は幕府の支持も取り付け、結局和睦することになった。『若狭国守護職次第』では和睦の時期を応永18年([[1411年]])6月の事とする。ただし、和睦の結果、[[丹後国|丹後]]守護職は持範、若狭守護職には義貫がなったという『[[系図纂要]]』の記述は誤りで、持範は終生守護職に就くことなく終わった。
 
持範の系統は一色宗家の守護国であった三河・丹後の分郡守護や代官を務めていたが、[[室町幕府]]将軍家直属軍である[[奉公衆]]も兼ね室町御所にも出した。更に[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]に仕えた後、[[江戸幕府]]の[[旗本]]となった。
 
== 関連項目 ==
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