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斉彬は[[幕府]][[老中]]・[[阿部正弘]]らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の[[坊津町|坊津]]や[[琉球]]などを拠点としたご禁制品の[[中継貿易]])に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。
 
嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に[[密貿易]]の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした[[服毒自殺]]とも言われる。
 
死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。葬所は養父清悦と同じ江戸芝の[[大円寺 (杉並区)|泉谷山大円寺]]。[[法号]]は全機院殿敷積顕功大居士。現在の墓所は[[鹿児島市]]内の[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]跡。