「サミュエル・ロビンス・ブラウン」の版間の差分

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==生涯==
1810年6月16日に米国[[コネチカット州]][[イーストウィンザー]]で、機械工のテモシー・ブラウンと賛美歌作者フィーベ・ブラウンの間に生まれた。3歳の時に一家はエリントンに移り、さらに8歳の時に[[マサチューセッツ州]][[マンソン]]に移った。この頃より、母と一緒に[[会衆派]]の教会に出席して、[[マンソン・アカデミー]]に入学した。18歳でマンソン・アカデミーを卒業して、[[アマースト大学]]に入学した。しかし、経済的理由で退学し[[エール大学]]に入学し、1832年にエール大学を卒業後ニューヨークの聾唖学校で教えた。1835年に健康を害して聾唖学校を退職して、[[サウス・カロライナ州]]に移住して、[[コロンビア神学校で働き、]]と[[バアンヴィル・ヤングレディ・セミナリー]]で音楽を教えた。
 
1836年に[[長老派]][[ユニオン神学校]]に入学した。1838年10月にユニオン神学校を卒業して、エリザベス・バートレットと結婚して、10月17月に[[モリソン号]]に乗り、1839年2月19日に[[マカオ]]に到着する。そこで、[[モリソン記念学校]]の校長に任命された。最初の生徒は6人だった。1841年にテキストを作るために[[シンガポール]]を訪れた。その際に[[ヘボン]]博士夫妻に出会った。1842年の[[アヘン戦争]]の終結の際に、[[香港]]が割譲されたので、1842年11月1日の校舎を香港に移転した。しかし、1847年1月2日に婦人の病気のために、三人の中国人生徒と共にアメリカに帰国する。三人の生徒はマンソン・アカデミーに入学し、ブラウンはニューヨーク州ローマに新設されたローマ・アカデミー校長に就任した。校長と兼任して、1851年より、ニューヨーク州オワスコ・アウトレット・ビーチ教会の牧師に就任した。1855年のアメリカ最初の女子大学エルマイラ・カレッジの設立にも尽力した。
 
1858年2月に再び、海外伝道に行く決心をして、1859年[[オランダ改革派]]教会から、[[シモンズ]][[フルベッキ]]と共に日本派遣宣教師に選ばれて、5月7日にニューヨークから出発した。
 
1859年11月1日、ブラウンとシモンズは神奈川に上陸して、フルベッキは上海を経て、11月7日に上陸した。ブラウンは、先に成仏寺に間借りしていたヘボンと共に、成仏寺の本堂を間借りし、日本語の学習と聖書の和訳を始めた。
 
同年、日本語教師として[[矢野隆山]]を雇ったが、聖書和訳のためには能力不足と考え、ミス。アドリアンスに日本語教師にした。後に、矢野は[[ジェームス・バラ]]の日本語教師になり、最初のプロテスタント信者になった。
 
ブラウンは領事を通して、英語通訳養成のために、日本人青年のクラスを担当してほしいとの以来を受けた。幕府が校舎を建てて、生徒の寄宿費用を支出して、毎日3時間ブラウンが英語を指導することになり、1862年に横浜英学所として運上所前の官舎で開校された。