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[[修験道]]の祖と言われる[[役小角]](役行者)は[[文武天皇]]3年([[699年]])朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが[[伊豆大島]]に配流された([[続日本紀]])。役行者について正史が伝えることは以上であるが、伝承によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に[[熊野本宮大社]]の御神体を捧持したとされる。彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった[[大宝 (日本)|大宝]]元年([[701年]])3月、神託を得て現在の[[熊野神社 (倉敷市林)|熊野神社]]の地に[[紀伊国|紀州]]熊野本宮を遷座し、5人の高弟それぞれが尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。中でも尊瀧院が中心寺院となった。
[[奈良時代]]に入ると[[皇室
熊野神社と修験道の寺院が一体となった[[神仏習合]]の形態を取る宗教施設として栄えたが、[[平安時代]]中期以降は衰微した。
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