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'''トグス・テムル'''('''Tögüs-Temür''')は[[モンゴル帝国|モンゴル]]の第17代[[ハーン|大ハーン]]([[北元]]として第3代皇帝)。即位当時に立てた[[元号]]から'''天元帝'''言わ呼ばれることもある。[[クビライ]]以来続いてきた[[元 (王朝)|元朝]]の王統から出た最後のハーンとなった。
 
前ハーンの[[アユルシリダラ]]の弟で、[[1378年]]アユルシリダラの死とともにハーンに即位し、天元と改元した。トグス・テムルが即位したとき、元を北に追いやった[[明]]はそれでもせいぜい[[江南]]に加えて[[華北]]と高原の南辺を押さえたのみで、まだ依然として精強な北元の勢力は明と充分に戦える状況にあった。当時の北元の支配領域は東西は中国東北([[満州]])から[[モンゴル|モンゴル人]]の本土である[[モンゴル高原]]のほとんど全土を保持しており、しかも中国の[[甘粛省|甘粛]]や[[雲南省|雲南]]にはモンゴルの王族や貴族が残留して[[]]と対峙していた。
 
[[1387年]]、トグス・テムルは東北方面に勢力を持つ[[ジャライル]]部の[[ナガチュ]]が明の北伐を受けて窮地に陥ったことを受け、東方に向かって遠征を行った。しかしナガチュは明に降伏してしまい、トグス・テムルも翌年に[[ホロンボイル]]地方のブイル・ノールで明の将軍[[藍玉 (明)|藍玉]]と戦って大敗した。この戦いで北元は、トグス・テムルの皇后をはじめ、8万と言われる多数の軍民を捕虜とされてほとんど壊滅する。
 
トグス・テムルは[[カラコルム]]を目指して落ち延びたが、途中で高原西部に勢力を持つ[[アリクブケ]]系統の王族[[イェスデル]]の襲撃を受け、残軍もほとんど壊滅した。トグス・テムルはわずか16騎とともに辛くも逃げ延びたものの、大雪に阻まれてカラコルムにたどり着けないでいるうちにイェスデルの軍に追いつかれて捕らえられ、殺害された。トグス・テムルには2人の男子がいたが、長男の天保奴([[ティポヌ]])は父とともに殺害され、ブイル・ノールで捕虜となった次男の地保奴([[ティボヌ]])は明によって[[琉球]]に流されたため、北元のクビライ王統はここに一旦断絶した。