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Dokomonta-Bot (会話 | 投稿記録)
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ワカタカで第1回東京優駿大競走(現在の東京優駿、日本ダービー)優勝。函館の弟子で、のちに後に[[クモノハナ]]、[[ハイセイコー]]の管理で知られる調教師・[[鈴木勝太郎]]は、当時を振り返って「ワカタカの調教師だった東原(玉造)先生が騎乗について細かい指示をするのに対し『ごちゃごちゃ言うな。お前とオレとじゃ腕が違う。今日のレースはオレにまかせとけ』と言い放ち、意表を突いた逃げ切り勝ちを収めた。あの人は名人だった」と語っている。
 
騎手としては一流だったものの、調教師としての実力はあまりなかったという。証拠に孫作の弟子の1人・[[高橋英夫 (調教師競馬)|高橋英夫]]が孫作の厩舎に入門したとき(このときは既に目黒競馬場の閉鎖を機に[[中山競馬場]]に移籍していた)馬房には5、6頭しかいなく、いずれも怪我をしていたり故障から上がったばかりの馬ばかりで満足にレースに出せる馬はいなかったという。
 
ただし戦後の[[1949年]]、[[優駿牝馬]](オークス)をキングナイトで勝ち調教師としても大レースの勝利を獲得した(騎乗していたのは弟子の高橋。調教師としての大レース勝利はこれが最初で最後)。