「兵士の物語」の版間の差分

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この曲は[[第一次世界大戦]]直後の全世界的な経済的苦境によって生み出されたものと言える。
ストラヴィンスキーは1917年の[[ロシア革命]]の影響で[[ロシア]]国内に所有していた資産を没収される憂き目に遭い、なおかつ彼の作品を一手に担っていた出版社が[[ベルリン]]にあるという状況から、作品の印税や演奏による収入を得る術が無くなってしまった。すなわち、ストラヴィンスキーは自身の経済的困難を打破するために、新たな仕事をする必要に迫られていたのである。
 
しかし、戦争直後の疲弊した状況下では大規模な作品の上演は到底望めないことであった。これを受けて少人数の巡業劇団クラスで上演できるような作品を考えたことにこの曲は端を発する。
しかし、戦争直後の疲弊した状況下では大規模な作品の上演は到底望めないことであった。これを受けて少人数の巡業劇団クラスで上演できるような作品を考えたことにこの曲は端を発する。原作を民俗学者・[[アレクサンドル・アファナーシェフ]]の編纂によるロシア民話集に求め、以前から親交のあった[[スイス]]の小説家・ラミューズに[[脚本]]の執筆を依頼したのだが、ラミューズは[[ロシア語]]が全くわからないことから、ストラヴィンスキーが民話の内容を[[フランス語]]で口述し、それをもとにラミューズが脚本化するというプロセスを経た。
 
作品の完成は1918年、スイスのモルジュにて。
作品の完成は1918年、スイスの[[モルジュ]]にて。『[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]』以来[[バレエ・リュス|バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)]]に楽曲を提供し続けていたストラヴィンスキーが同団以外の舞台に協力したことについて、バレエ・リュスの主宰者[[セルゲイ・ディアギレフ]]は激しく嫉妬したという<ref>リチャード・バックル、鈴木晶訳『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』リブロポート、1987年、下巻75ページ</ref>。
 
== あらすじと音楽 ==