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於富は[[明和]]8年([[1771年]])頃、大奥で一橋徳川家当主・徳川治済の目にとまり、治済は将軍・家治に於富を所望して、於富は治済の側室となった(大奥には将軍以外の男でも[[老中]]や[[御三家]]・御三卿のみ入る事は可能であった)。
 
[[安永 (元号)|安永]]2年([[1773年]])に於富は豊千代(後の11代将軍・[[徳川家斉]])、安永5年に力之助(後の[[尾張藩]]主・[[徳川治国]])、安永6年([[1777年]])に雅之助(後の[[福岡藩]]主・[[黒田斉隆]])、安永9年([[1780年]])に好之助(後の[[一橋徳川家]]当主・[[徳川斉敦]])む。後に息子の豊千代が[[天明]]元年([[1781年]])5月に10代将軍・家治の養子となり、11代将軍・徳川家斉となるのである。
 
この養子縁組は治済が、於富と関係が深い田沼意次や大奥年寄・大崎などを豊千代の将軍家継嗣の擁立を頼み込んだ結果、大奥が豊千代を擁立し、家治との養子縁組が決定したという。
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[[Category:一橋徳川氏]]
[[Category:江戸時代の人物]]
[[Category:徳川氏]]
[[Category:1817年没]]