「斉藤浩哉」の版間の差分

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スキージャンプの盛んな余市町にあって10歳のときにジャンプを始めた<ref>http://www.snowbrand.co.jp/jump2001/profile/jampers/saito01.html ジャンプ雪印ウェブページ</ref>。余市町立西中学校から[[北海道余市高等学校|余市高校]]を経て1989年4月に[[雪印乳業]]入社。
 
現役時代は「教科書」とも評された基本に忠実な、誰よりも安定したジャンプスタイルに定評があり、[[1997年]]-[[1998年]]シーズンには3度あった日本のW杯表彰台独占において唯一3度全てで表彰台に上がり(1月1日・[[ガルミッシュパルテンキルヘン]]:1位[[船木和喜|船木]]、2位[[原田雅彦|原田]]、'''3位斉藤'''。1月11日・[[ラムソー]]:1位原田、2位船木、'''3位斉藤'''。3月1日・[[ヴィケルスン]]:1位[[岡部孝信|岡部]]、'''2位斉藤'''、3位[[葛西紀明|葛西]])、長野五輪では団体戦の2番手として1回目130m、2回目124mと非常に堅実なジャンプで実力を見せつけ、日本の金メダル獲得に大きく貢献するなど大活躍だった。<!--1995年のワールドカップ・シャモニー大会での初優勝時に「日本でも優勝した事が無い僕が、まさか、まさか、まさ~か」と破顔で日テレのインタビュアーに応え、その控えめな人柄からか「まさかまさかの斉藤さん」と賞賛された。(これは1995年に初優勝したときの[[東輝]]の発言であるという指摘があります)-->しかし長野五輪後は度重なるケガに泣かされた。1998年7月に右ひざの前十字じん帯、1999年6月には左ひざの膝蓋腱(しつがいけん)3カ所を断裂したがそのたびに復活した。
 
2003年3月に現役引退<ref>http://www.snowbrand.co.jp/jump2002/thanks/index.html ジャンプ雪印ウェブページ</ref>し[[雪印乳業]]のコーチに就任。2006年4月より同監督に就任。
[[File:Hiroya Saito 2000-03-19.jpg|220px|thumb|現役時代の斉藤浩哉]]
 
== 主な競技成績 ==
*[[1995年ノルディックスキー世界選手権|世界選手権]]([[1995年]]、[[サンダーベイ (オンタリオ州)|サンダーベイ]])