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'''上杉 房顕'''(うえすぎ ふさあき、[[永享]]7年([[1435年]]) -[[寛正]]7年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]([[1466年]][[2月26日]]))は、[[室町時代]]中期の[[武将]]。[[関東管領]]・[[山内上杉家|山内上杉氏]]当主。[[上杉憲実]]の次男[[上杉憲忠|憲忠]]の弟。官位は[[兵部省|兵部少輔]]。子に[[宇都宮正綱]]継室。養子に[[上杉顕定|顕定]]。幼名は龍春。通称は八郎。
 
[[永享の乱]]と[[結城合戦]]に勝利した[[上杉憲実]]は房顕以外の子供を全て出家させた。房顕はしばらく従兄の[[越後国|越後]][[守護]][[上杉房朝]]の元に留め置かれたが[[文安]]元年([[1444年]])に憲実から越後と[[丹波国|丹波]]の所領を与えられ、上洛して8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の近臣として仕えた。[[1454享徳]]3[[12月27日 (旧暦)|12月27日]](1455年1月15日)に兄が[[鎌倉公方]][[足利成氏]]によって[[暗殺]]されると、その弟に当たるという経緯などから<!--[[上杉持朝]]と[[長尾景仲]]らから擁立されて-->[[1455享徳4]]3(1455年)3月に新たな関東管領に任命され、成氏征討軍の大将として関東へ下向して同年4月頃に[[上野国|上野]][[平井城]]へ入った([[享徳の乱]])。<!--しかしこれに反発する成氏の反抗を受けて、同年1月に[[武蔵国]][[分倍河原の戦い (室町時代)|分倍河原の戦い]]で成氏軍の前に大敗を喫して武蔵を追われ、[[常陸国]]小栗に逃走する。-->
 
<!--[[1456年]]、武蔵国深谷に復帰を果たし、-->それ以降は鎌倉から古河へと拠点を変えた成氏と何度も交戦したが、[[長禄]]3年([[1459年]]には[[武蔵国|武蔵]][[五十子の戦い#太田庄の戦い|太田庄の戦い]]で成氏軍の前に大敗を喫した。<!--このため、深谷からも追われて武蔵国五十子まで後退する。-->寛正4年([[1463年]]には、房顕の右腕であった山内上杉家の家宰の[[長尾景仲]]が病没し、房顕は関東管領からの辞意を表明したが、幕府に拒絶された。[[1466寛正7]](1466年)、五十子にて陣没した。[[享年]]32。法号:大光院清岳道純。
 
房顕の度重なる敗退は、関東管領家の衰退にもつながったのである。