「ジョージ・マクレラン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
WikitanvirBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: bg:Джордж МакКлелан
編集の要約なし
19行目:
}}
 
'''ジョージ・ブリントン・マクレラン''' ('''George Brinton McClellan''', [[1826年]][[12月3日]] - [[1885年]][[10月29日]]) )、は[[南北戦争]]中の北軍(Union Army)の[[少将]]。有名な[[ポトマック軍]]を編成し、[[1861年]]11月から[[1862年]]3月の短い期間に北軍の最高司令官を務めた。背が低かったためたちからは「リトル・マック」、新聞などからは当初「若きナポレオン」と呼ばれていた(しかし後に「ターディ・ジョージ」、つまり「のろまのジョージ」へと変化する)。
 
== 経歴 ==
33行目:
また、戦場における働きとオーガナイザーとしての能力はきわめて優秀な人物であり、基本的には少数の正規軍と州兵、それに多くの観光気分で入隊した(当初この戦争は数ヶ月で終わると思われていた)志願兵の寄せ集めであったポトマック軍を曲がりなりにも北バージニア軍に対抗できる『軍』に鍛え上げた功績は決して小さいものではない。しかし彼は自分が精魂込めて育て上げた軍隊をなかなか使おうとせず、暇さえあれば訓練を施したり将兵の待遇を改善したりとその軍隊を磨き上げる事に熱心であった。これがゲティスバーグに次ぐ損害を出した[[七日間の戦い]]や1日の戦闘で最大の損害を出した[[アンティータムの戦い]]を戦い抜き、壊走状態にあったヴァージニア軍を驚くべき速さで回復させる原動力となる。そのせいで軍の将兵には大変好かれていたが、リンカーン大統領には「もしマクレラン将軍が(ポトマック)軍を使う気がないのであれば、少々貸してもらえないだろうか」と皮肉られる事になってしまう。
 
彼の戦場に赴くまでの消極的な指揮ぶりが個人的武勇の欠如のせいではないことは、彼の米墨戦争や南北戦争初期のウェストヴァージニアでの活躍を見ても明らかであり<ref>彼は米墨戦争中に戦場での勇気ある行動を軍に認められ、2度も名誉進級([[:en:Brevet_(military)|brevet]])している。</ref>、南北戦争専門の歴史家の[[スティーブン・シアーズ]]([[:en:Stephen W. Sears|Stephen Sears]])などは彼が手塩にかけて育てた兵たちを戦場で失うことを極度に恐れたからこそ戦闘を避けようとしたり実際戦闘になったときは消極的になってしまったのではないかと分析している。シアーズ曰く、マクレランは「事務的な物事を取り扱う将官としては最高であり、戦略などを立案する将軍としても活躍できただろうが、実際戦場で兵を指揮するような立場は完全に向いていなかった」としている。
 
しかしリッチモンドを目指して南部に侵入した北軍がことごとく敗れて追い返されていることでわかるように、東部における初期の南軍は強力で、海上封鎖で弱らせてからでなければとても打ち破れる相手ではなかった。このことからすればリッチモンドを目指して突進するのではなく、敵の兵力をすり減らし、北部への侵入を確実に阻止するマクレランの戦い方は、消極的なのではなく、戦況に合った戦い方を適切に選んだものとも言える。
 
このように、マクラレンの評価は簡単なカテゴリー化を難しくしている。戦争の後、[[ユリシーズ・グラント]]はマクレランを将校として評価するかと訊ねられ、「マクレランは私にとって戦争の謎のひとつだ」と応えた。グラントに戦闘でことごとく完勝したリーに勝ったマクレランが<ref>グラントは1864年の一連の荒野戦役において、補給も不足し士気も下がり両腕とも言えるジャクソンとロングストリートを欠いたリーの軍に対し、倍の兵力で攻撃したにも関わらず、戦場確保の点でも倍の損害を受けたという点でも完敗した。それでもグラントがリッチモンド前面までたどり着けたのは、グラントの不屈の闘志以上に、両腕ジャクソンとロングリストリートを持たないリーには、もはや転進するグラントを捕まえる術がなかったということが大きい。一方マクレランは1862年のアンティータムの戦いで、やはり倍の兵力を持ってリーを攻撃した。この時のリーの軍は連戦連勝で士気も高くジャクソンもロングストリートもいる絶頂期だったが、マクレランはこの戦いで戦場を確保して勝利し、損害も同程度に過ぎなかった。グラントが北軍勝利に大きな貢献をしたのは確かだが、軍を率いて戦場で戦う能力については、リーやマクレランに及ばなかった。</ref>、なぜ早期に解任されなければならなかったのかは、まさに謎である。また用兵家として南北戦争で最高の名声を得た[[ロバート・E・リー]]は、北軍で最高の将軍は誰かと訊ねられ、「マクレランだな、文句なしに」と即答した。一般の民衆や歴史家は攻撃精神でしか将軍を評価せず、天才を理解できるのは天才だけということである。
 
== 脚注 ==
50行目:
 
{{DEFAULTSORT:まくれらん しよし}}
{{Link FA|en}}
{{Link FA|pl}}
 
[[Category:アメリカ合衆国陸軍の軍人]]
[[Category:ニュージャージー州知事]]
[[Category:アメリカ合衆国大統領候補者]]
[[Category:フィラデルフィア出身の人物]]
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]
61 ⟶ 59行目:
[[Category:1826年生]]
[[Category:1885年没]]
 
{{Link FA|en}}
{{Link FA|pl}}
 
[[bg:Джордж МакКлелан]]