「喜連川頼氏」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ThunderCross (会話 | 投稿記録)
全体の出典を明記願います。Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方をご参照下さい。
ちちぶ (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
1行目:
{{出典の明記|date=2011年3月}}
{{基礎情報 武士
'''喜連川 頼氏'''(きつれがわ よりうじ、[[天正]]8年([[1580年]]) - [[寛永]]7年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1630年]][[7月22日]]))は、[[下野国]][[喜連川藩]]初代[[藩主]]。
| 氏名 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 =
| 生誕 = [[天正]]8年([[1580年]])
| 死没 = [[寛永]]7年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1630年]][[7月22日]])
| 改名 = 龍王丸(幼名)、頼氏
| 別名 =
| 諡号 =
| 戒名 = 涼山蔭公大樹院
| 墓所 =
| 官位 = 左馬頭
| 幕府 =
| 主君 =
| 藩 = [[喜連川藩]]初代藩主
| 氏族 = [[足利氏]]、[[喜連川氏]]
| 父母 = 父:[[足利頼純]]、母:[[佐野晴綱]]の娘
| 兄弟 = [[足利国朝|国朝]]、'''頼氏'''
| 妻 = 正室:'''[[足利氏姫]]'''
| 子 = '''[[喜連川義親|義親]]'''、娘([[島田利木]]室)
| 特記事項 =
}}
 
'''喜連川 頼氏'''(きつれがわ よりうじ)は、[[下野国]][[喜連川藩]]初代[[藩主]]。[[小弓御所公方]]・[[足利義明]]の次男・[[足利頼純|足利頼淳]](頼純)の次男。母は佐野晴綱の娘。喜連川家初代・[[足利国朝]]の弟に当たる。正室は古河公方・[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]の娘・[[足利氏姫]]。子は[[喜連川義親]](長男)、娘([[島田利木]]室)。[[幼名]]は龍王丸。官位は左馬頭。法号は涼山蔭公大樹院
 
== 経歴 ==
天正20年([[1593年]])、兄の[[足利国朝]]が[[文禄の役]]で[[九州]]に赴く途上の[[安芸国]]で病死したため、兄の正室であった足利氏姫が頼氏と再婚することで[[足利氏]]後裔[[喜連川氏]]の名跡を継いだ。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では頼氏は出陣しなかったが、戦後に[[徳川家康]]に対して戦勝を祝う使者を派遣したため1000石を加増され、[[喜連川藩]]が立藩された。
 
喜連川藩の知行地はわずか5000石弱に過ぎなかったが、[[江戸幕府]]を開いた徳川家康から[[足利氏]]の名族としての伝統を重んじられ、10万石並の[[四品以上に昇進する大名家一覧|国主格]][[大名]]の待遇を受けた。
13 ⟶ 36行目:
 
{{喜連川藩主|初代|1593年 - 1630年}}
 
{{DEFAULTSORT:きつれかわ よりうし}}
[[Category:関東足利氏|よりうし]]