「安岡良亮」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
加筆の前に出典を示してください。
19行目:
このとき[[太田黒伴雄]]の敬神党([[神風連]])の人々の人心調和に努め、[[佐賀の乱]]に際しては熊本士族の動揺を鎮めるなど良政を施したが、明治9年([[1876年]])[[10月24日]]神風連が挙兵([[神風連の乱]])、自宅で参事・警部ら4人と対策会議中に神風連・[[吉村義節]]らの襲撃にあって重傷をおった。このときは裏の畑に隠れて助かったが、3日後に[[鎮台病院]]で死去した。
 
=== 略歴年譜 ===
*[[文政]]8年([[1825年]])4月、土佐藩中村郷士・安岡故五郎の長子として誕生。
 
*[[文久]]・[[元治]]頃、[[樋口真吉]]らと[[幡多勤王党]]を組織して国事に奔走。
[[文政]]8年([[1825年]])4月、土佐藩中村郷士・安岡故五郎の長子として誕生。
*慶応3年([[1867年]])、薩土密約の締結に参画。
 
[[*慶応4年]]([[1868年]])、[[戊辰戦争]]で迅衝隊半隊長、扈従格、小監察として出征。
[[文久]]・[[元治]]頃、[[樋口真吉]]らと[[幡多勤王党]]を組織して国事に奔走。
[[*明治2年]]([[1869年]])、新政府で弾正少忠、弾正大忠。
 
[[慶応*明治3年]]([[18671870年]])、[[薩土密約]]の締結に参画集議員判官
[[*明治4年]]([[1871年]])、民部少丞。
 
[[慶応4年]]([[1868年]])、[[戊辰戦争]]で迅衝隊半隊長、扈従格、小監察として出征。
 
[[明治2年]]([[1869年]])、新政府で弾正少忠、弾正大忠。
 
[[明治3年]]([[1870年]])、集議員判官。
 
[[明治4年]]([[1871年]])、民部少丞。