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|country = ドイツ
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|criterion_c = (2), (3)
|rg_year = 2001年
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'''ツォルフェアアイン炭鉱業遺産群'''は、[[ドイツ]]の[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]][[エッセン]]にある[[産業遺産]]である。[[ヨーロッパ産業遺産の道]]のアンカーポイントの一つであり、2001年には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。
 
この施設群での[[炭鉱業]]は[[1847年]]に見られ始め、採炭は[[1851年]]から[[1986年]][[12月23日]]まで行われた。1950年代後半からの数十年は、この施設群の二部門であるツォルフェアアイン炭鉱とツォルフェアアイン・[[コークス]]工場(1957年から1961年に建造され、1993年6月30日に閉鎖された)は、この種のものとしてはヨーロッパ最大のものであった。1932年に開かれた[[バウハウス]]様式の第12採掘坑(Pit 12)(Pit 12) は、建築上からも技術上からも傑作と呼べるものであり、「世界で最も美しい炭鉱」との評価を受けている<ref>[http://en.erih.net/index.php?anchor=66&pageId=40 European Route of Industrial Heritage]</ref>。
 
== 歴史 ==
=== 1847- 1890 ===
ツォルフェアアイン炭鉱は、[[デュイスブルク]]生まれの企業家フランツ・ハニエル(Franz Haniel, 1779年-1868年)によって設立されたものである。ハニエルは、[[製鉄業]]のためにコークスを捜し求めていた。彼がカターンベルク地方(Katernberg, 現在の[[エッセン]]郊外)を試掘してみた結果、そこに膨大な[[石炭]]層が眠っていることが明らかになった。この石炭層は、 [[1834年]]に結成された[[ドイツ関税同盟]](ツォルフェアアイン)にちなんで後に「ツォルフェアアイン」と名づけられた。
1847年にハニエルは天然資源採掘を目的とする[[プロイセン]]独特の企業体であるツォルフェアアイン鉱業会社(bergrechtliche (bergrechtliche Gewerkschaft Zollverein)Zollverein) を設立し、新会社の分け前を家族や該当地域の地主たちとの間で分配した。
 
第1採掘坑の掘り下げは1847年2月18日に始まり、最初の石炭が地下 130 [[メートル|m]] で発見された。最初の本格的な採掘は1851年に始まり、第2採掘坑も1852年に開かれた。両採掘坑は視覚的には同じ石塔に特徴付けられており、マシン・ハウスを共有していた。このコンセプトは後の双採掘坑(twin (twin-pit)pit) 式炭鉱の多くで受け容れられた。
 
1857年にはコークスの生産のために木炭を積み上げたもの(charcoal piles)(charcoal piles) を用い始め、1866年には近代的なコークス炉や機械炉(machine ovens)(machine ovens) を使うようになった。
 
1880年に第3採掘坑の掘り下げが ''Schonnebeck'' に隣接する場所で行われた。この採掘坑は螺旋状の塔として[[鉄骨]]が採用され、1883年に開かれた。1890年までに3つの採掘坑からは100万トンが産出されており、ツォルフェアアインはドイツの全鉱山の頂点に立った。
 
=== 1890- 1918 ===
19世紀末葉から20世紀初頭にかけて[[ルール地方]]での石炭・製鉄業が栄えると、ツォルフェアアインも大きく伸張した。
 
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その後何年も継続的な改良とさらなる伸長が見られた。第7・第8・第9採掘坑の建設後に、旧式の第1・第2採掘坑は刷新された。石塔の一つは解体され、近代的な[[鉄骨]]製に替えられた。1914年にはかつて通気口としてしか使われていなかった第9採掘坑に第10採掘坑と新しいコークス炉が開かれた。
 
[[第一次世界大戦]]前夜には、ツォルフェアアインの産出量はおよそ 250万 [[トン|t]] にのぼっていた。
 
=== 大戦以降 ===
第一次世界大戦の後、1920年からは、周辺の炭坑と連携して維持と発展が図られた。そして、第4・第5の双採掘坑の更新のため、1927年までかけて第11坑が追加された。
 
1928年に入ると、中心となる坑を建設し、採掘量を増加させることが決定された。建築的にも技術的にも一流の施設を目ざし、設計が建築家フリッツ・シュップ(Fritz Schupp, 1896 -1974) 1974年)とマルティン・クレマー(Martin Kremmer, 1894 -1945) 1945年)に依頼され、当時影響力があった[[バウハウス]]の考えに沿ってデザインされた。1930年に建設され、1932年に稼動を開始した第12採掘坑の2本の足を有す立坑櫓は、最も近代的で「世界一美しい」と言われており、その後の櫓の模範となった。こうして発展した炭坑には、1937年に全体で6,900人が従事し、産出量が計 360万トン t に達した。
 
[[第二次世界大戦]]による被害は少なく、1953年には産出量が 240万トン t に回復している。その後も施設の改修が進められ、1961年には西側の用地で新たな[[コークス]]工場が操業を開始した。1日に1万トンの石炭をコークスにする能力がある、ヨーロッパ最新鋭の施設であったが、後にヨーロッパの鉄鋼業が衰退し、コークスの需要が減少したため、1993年7月末で停止されている。
 
1968年からは経営がルール石炭会社に移され、操業が継続された。しかし、1983年に操業を停止する方針が決定され、1986年12月23日を最後に、操業が止められた。その後も操業が継続されたコークス工場も、1993年に停止されている。
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=== 産業遺産への転換 ===
1986年の操業停止の後、[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]が跡地を購入し、全体を[[産業遺産]]として保護の対象とし、用地の整理を開始した。当初予定した整備は1999年に終了し、2001年からは財団を設立して維持にあたっている。そして、2001年12月14日に、ユネスコの世界遺産に登録された。
[[ファイル:Zollverein School of Management and Design 3116754.jpg|thumb|right|ツォルフェアアイン・スクール(設計:SANAA)]]
その後は、世界遺産としての整備が進められ、[[ルール地方]]の産業遺産ルートの重点地区とされており、[[ヨーロッパ産業遺産の道]]のアンカーポイントにもなっている。整備の一環として、旧ボイラー工場が[[ノーマン・フォスター]]の設計によって改修され、1997年から州のデザインセンターとして使用されている。また、2006年には、隣接地に、[[妹島和世]]と[[西沢立衛]]によるユニットである[[SANAA]]が設計したデザイン学校のツォルフェアアイン・スクールが完成し、その形から、地元でツォルフェアアイン・クブス(キューブのこと)と呼ばれている。なお、デザイン学校の生徒が予定通り集まらなかったため、建物の大半はまだ利用されていないが、教育施設としての活用が検討されている。
 
2010年にエッセンが[[欧州文化首都]]に選ばれたのは、これらの成果が貢献している。また、同年には、ファイル:Zollverein School of Management and Design 3116754.jpg|thumb|240px|right|ツォルフェアアイン・スクール設計したSANAAが[[プリツカー賞:SANAA)]]を受賞している。
その後は、世界遺産としての整備が進められ、[[ルール地方]]の産業遺産ルートの重点地区とされており、[[ヨーロッパ産業遺産の道]]のアンカーポイントにもなっている。整備の一環として、旧ボイラー工場が[[ノーマン・フォスター]]の設計によって改修され、1997年から州のデザインセンターとして使用されている。また、2006年には、隣接地に、[[妹島和世]]と[[西沢立衛]]によるユニットである [[SANAA]] が設計したデザイン学校のツォルフェアアイン・スクールが完成し、その形から、地元でツォルフェアアイン・クブス(キューブのこと)と呼ばれている。なお、デザイン学校の生徒が予定通り集まらなかったため、建物の大半はまだ利用されていないが、教育施設としての活用が検討されている。
 
2010年にエッセンが[[欧州文化首都]]に選ばれたのは、これらの成果が貢献している。また、同年には、ツォルフェアアイン・スクールを設計した SANAA が[[プリツカー賞]]を受賞している。
 
== 世界遺産登録基準 ==
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== 脚注 ==
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{{ドイツの世界遺産}}
{{産業遺産}}<!-- {{世界遺産に含まれる産業遺産}} -->
 
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