「タマーラ・カルサヴィナ」の版間の差分

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== イギリスでの活動 ==
イギリスに渡ったカルサヴィナは、[[1930年]]から[[1931年]]にかけて、[[マリー・ランバート]]が創始したイギリス初のバレエ団、バレエ・クラブ(後のバレエ・ランバート)にゲスト出演した。1931年にはバレリーナとしての活動からは引退するが<ref>鈴木(2008: 48)</ref>、バレエ・クラブや[[ロイヤル・バレエ]]などイギリスのバレエ・カンパニーにバレエ・リュスやマリインスキー劇場のレパートリーを伝授し助言を与え、[[フレデリック・アシュトン]]や、[[マーゴット・フォンテーン|マーゴ・フォンテイン]]など多くのイギリス人ダンサーに大きな影響を与えた(マーゴ・フォンティンはカルサヴィナの代表作『火の鳥』を伝授されている<ref>鈴木(2008: 51)</ref>)。
 
また、文筆活動も盛んに行い、雑誌『ダンシング・タイム』へのエッセイ寄稿のほか、『バレエ・テクニック』([[1956年]])、『クラシック・バレエ - 動きの流れ』([[1962年]])などの理論書、前半生をつづった自伝『'''劇場通り'''』([[1929年]]<ref>ディアギレフ死の翌日に完成し、カルサヴィナはこの日にディアギレフの訃報をきいた(『劇場通り』: 8)。</ref>、[[1947年]]に第28章「ディアギレフ」を追加)を執筆した。1910年に初めてロンドンを訪れた頃に全く英語をしゃべることができなかったカルサヴィナだが<ref>(『劇場通り』: 232)</ref>、これらの執筆は全て英語で行われている。