「フィリップ・ツー・オイレンブルク」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Hadrianvs et antinovs (会話) による ID:37237565 の版を取り消し
4行目:
1847年2月12日プロイセン領[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]に生まれる。後の[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の学友となる。[[1877年]]に外交官となり、駐在[[バイエルン王国|バイエルン]]公使、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]公使を歴任する。ヴィルヘルム2世が即位すると、オイレンブルクは非公式ではあるが国政に大きな影響力を持つようになる。その中には[[1897年]]の[[ベルンハルト・フォン・ビューロー]]の外相就任が挙げられる。ヴィルヘルム2世は、[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]引退後の「彼(ヴィルヘルム2世)のビスマルク」として皇帝の意思を実現できる強力な政治指導者を欲していた。オイレンブルクはビューローをその任に当てようと考えていた。
 
[[1900年]]オイレンブルク・ウント・ヘルテフェルト侯爵に陞爵した。またアウグスタ夫人(スウェーデンのザンデルス伯爵家出身)の関係からザンデルス伯爵位も継承した。夫人との間には8人の子に恵まれたが、[[1907年]]に皇帝の側近たちをめぐる[[同性愛]]スキャンダルである[[ハルデン=オイレンブルク事件]]に見舞われ、翌[[1908年]]には法廷に立って同性愛を否定した。裁判は健康上の理由からたびたび延期された。
 
{{BD-stub}}