「壬生綱房」の版間の差分

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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = [[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])
| 死没 = [[弘治天文 (日本元号)|弘治天文]]24[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]([[1555年]]))[[4月8日]])
| 戒名 = 龍柱院殿雲山良瑞
| 官位 = 下総守、中務少輔
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| 氏族 = [[壬生氏]]([[小槻氏]])
| 父母 = 父:[[壬生綱重]]
| 兄弟 = '''綱房'''、[[壬生周長|周長]]
| 妻 = 正室:法雲院殿大蓮妙鏡
| 子 = [[壬生綱雄|綱雄]]
}}
'''壬生 綱房'''(みぶ つなふさ、[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]] - [[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]]))、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[壬生氏]]第3代当主で、[[下野国|下野]][[宇都宮氏]]の家臣。[[壬生綱重]]の子で、[[壬生綱雄|綱雄]]。[[壬生周長|周長]]は弟。
 
== 略歴 ==
[[大永]]6年[[1526年]]に[[宇都宮興綱|芳賀興綱]]が主君[[宇都宮忠綱]]を追って家督を簒奪したさい([[宇都宮錯乱]])には忠綱を居城に保護した。[[芳賀高経]]らと手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し、[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])には興綱を自殺に追い込んだ。のちに高経とも対立し、同10年([[1541年]])興綱の子で宇都宮氏の家督を継いだ[[宇都宮尚綱]]とともにこれを滅ぼしている。同18年([[1549年]])[[喜連川五月女坂の戦い]]で尚綱が戦死すると[[宇都宮城]]を占拠したが、弘治元同24年(1555年)に急死した([[芳賀高定]]による謀殺とも)。また、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])には、嫡男[[壬生綱雄|綱雄]]が守った宇都宮城も高定を始めとする宇都宮勢に奪還された。
 
== 外部リンク ==