「第2SS装甲師団」の版間の差分

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ベオグラード占領後、師団は[[独ソ戦|ソビエト侵攻作戦]]の一端を担うために[[ポーランド]]へ移動した。
== ソビエト侵攻 ==
[[バルバロッサ作戦|ソビエト侵攻]]の際、師団はヴォック元帥の[[中央軍集団]]のグデーリアン上級大将指揮下の第2装甲集団に所属する第46軍団(自動車化)の一員として、参加した。ビヤリストック包囲戦、ミンスク包囲戦に参加し、スモレンスク包囲戦、その後の[[スモレンスク]]近傍の[[ヤルニヤ]]の戦い([[Battle of Yelnya]])や、キエフ包囲戦にも参加した。その後、所属する第2装甲集団(後に第2装甲軍に昇格)は再度東進し泥濘に苦しみながらもオリョルを経由しブリヤンスク・ウィヤジマ複合包囲戦にも参加した。その後、レニングラード攻撃を中止して鉄道輸送されたヘープナー上級大将の第4装甲軍第40軍団に所属し、モスクワ攻略作戦である[[モスクワの戦い|タイフーン作戦]]に参加した。[[クリン (モスクワ州)|クリン]]南方から[[イストラ (モスクワ州)|イストラ]]を経て[[1941年]]11月ドイツ軍の最高進出点である、ソビエトの首都まで数マイルの地点まで迫った。ソビエトの首都を視野に納める地点まで前進した時、天候の悪化と大きな損失とソビエトの冬季反攻により師団は押し戻された。多大な損失を被った後、師団は、前線から引き抜かれ、フランスへ送られた。師団の一部は東部戦線に残され、[[戦闘団|カンプフグルッペ]]・オステンドルフ (KG Ostendorff) の名前で呼ばれた。オステンドルフは[[1942年]]6月に師団の本体と合流した。1942年11月、師団の一部は、[[トゥーロン]]で、フランス艦隊の自沈を防ぐ試みに参加した。その後、師団は、装甲擲弾兵師団へ格上げされ、'''SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒ'''と改名された。
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-206-34, Schlacht um Kursk, Panzer VI (Tiger I).jpg|thumb|SS第2戦車連隊“ダスライヒ”第8中隊の[[ティーガーI|ティーガー]]戦車]]