「1701年王位継承法」の版間の差分

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'''王位継承法'''(おういけいしょうほう、{{langLang-en-short|Act of Settlement}})は、[[イギリス]]の[[王位継承]]について定めた法で、[[イギリスの憲法|イギリス不文憲法]]を構成する法典の一つである。歴史上何度か制定・改定されているが、特に言及されることが多いのは[[1701年]]に[[権利の章典|権利章典]]を改正して成立した王位継承法である。本項では以下、この1701年の王位継承法について説明する。
 
== 概要 ==
1701年当時の[[イングランド王国|イングランド]]王兼[[スコットランド王国|スコットランド]]王である[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]には嗣子がなく、義妹[[アン (イギリス女王)|アン]]([[プロテスタント]])とその子らが王位を継ぐことが期待されていたが、彼女の子らがことごとく死亡し、アン以降の国王最有力候補が[[カトリック教会|カトリック]]の[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ老僣王]]となった。そこで老僣王の即位を阻むべく、王位継承法は制定された。
 
この法によって定められた主な条項は、以下の通りである。
* 王位継承者は、[[ステュアート朝|ステュアート家]]の血を引く者に限る。
* [[イングランド国教会]]信徒のみが王位継承権を持つ([[カトリック教会|カトリック]]信徒は王になれない)。同様に、その配偶者も国教会信徒でなければならない。
*: この条項により、ジェームズ老僣王をはじめ、
*:* [[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の王女[[ヘンリエッタ・アン・ステュアート|ヘンリエッタ・アン]]の血を引く[[アンナ・マリーア・ドルレアンス|サヴォイア公妃アンナ・マリア]]とその子孫<ref>[[カルロ・エマヌエーレ3世|サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世]]などが含まれる。なお、ジェームズ老僭王の血筋が断絶した後、ジャコバイトはカルロ・エマヌエーレ3世の子孫を王位継承権者とした(参照:[[ジャコバイト王位継承者の一覧]])。</ref>
*:* [[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の王女[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]の血を引く者のうち[[エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール|オルレアン公妃エリザベート・シャルロット]](エリザベスの次男・[[カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒ]]の娘)とその子孫<ref>[[フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公フィリップ2世]]以降の[[オルレアン家]]の人物、[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝フランツ1世]]とその血を引く[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の人物などが含まれる。</ref>
*:* 同じくエリザベスの血を引く者のうち[[アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク|神聖ローマ皇后アマーリア・ヴィルヘルミーネ]](エリザベスの六男[[エドゥアルト・フォン・デア・プファルツ|エドゥアルト]]の孫)とその子孫<ref>[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|ポーランド王妃兼ザクセン選帝侯妃マリア・ヨーゼファ]]とその血を引くザクセン選帝侯家(のちザクセン王家)の人物、[[マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ|神聖ローマ皇后兼バイエルン選帝侯妃マリア・アマーリエ]]とその血を引くバイエルン選帝侯家の人物などが含まれる。なお、アマーリア・ヴィルヘルミーネは母がジョージ1世の母方の従姉であると同時に、自身がジョージ1世と父方の従姉弟の関係にある。</ref>
*: など血統上の権利者の多くが排され、エリザベス王女の末娘・[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]妃[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]およびその子孫に継承権者が限定された。
* 外国出身の王は、議会の承認を得なければイングランド国外の領地のために出兵できない。
* 王は、議会の承認なくしてイングランド国外に出ることはできない([[1714年]]廃止)。
 
== 成立の背景 ==
これは[[ジャコバイト]]の脅威が背景にあり、この王位継承法なくしてはアン女王の死後、[[名誉革命]]によって玉座を逐われた[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の長男(アンの異母弟)[[ジェームズフランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ老僣王]]に王位が移る可能性が強まったためである。この法によって[[カトリック教会|カトリック]]を王位から締め出すと、カトリックが比較的多く[[ステュアート朝|ステュアート家]]の発祥地である[[スコットランド]]では反発が起こり、スコットランド議会で[[1703年]]、スコットランドの王を自らで決するという安全保障法(the Act of Security)が成立した。これに対してイングランド側は交易の制限などの圧力をかけたため、スコットランドは経済的に追いつめられた。その結果、[[1707年]]に合同法が成立して、スコットランド議会は自らの解散を宣言、イングランドとスコットランドの合同により[[グレートブリテン王国]]が成立した。[[1714年]]にアン女王が死去すると、王位継承法によってゾフィーの長男、ハノーファー選帝侯ゲオルクがグレートブリテン王に迎えられ、[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]として即位した。
 
現在もこの王位継承法は受け継がれているが、カトリックの王位継承禁止を撤廃すべきという意見も少なくない。[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]の従弟[[マイケル・オブ・ケント|マイケル王子]]はカトリックの女性[[マリー=クリスティーヌ (マイケル王子夫人)|マリー=クリスティーヌ]]と結婚し、王位継承権を失った。[[2005年]]の総選挙で[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[マイケル・ハワード (イギリスの政治家)|マイケル・ハワード]]は、カトリック王位継承禁止条項の再検討を公約に選挙戦を戦ったが、[[労働党 (イギリス)|労働党]]に敗れた。
 
== 王位継承権 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.jacobite.ca/documents/1701settlement.htm Act of Settlement, 1701, (Text)(Text)]
 
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