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コリントスは非ギリシア語源の語とみられ、おそらくドーリア人以前の先住民族の語。[[ミケーネ文明]]の頃にはすでに繁栄していたと推測される。神話ではコリントスの創設者は[[シーシュポス]]であり、コリントスの王はその子孫であるとされる。神話ではまた[[イアーソーン]]が[[メーデイア]]を離婚した土地ともいわれる。
 
古典期には[[ペロポネソス半島]]とギリシア本土をつなぐ[[コリントス地峡|イストモス地峡]]に位置し、交通と交易の要衝として繁栄して[[アイギナ]]と並ぶギリシャ世界の経済の中心となり、[[アテナイ]]や[[テバイ]]の台頭後も財力でこれらに並んだ。'''[[アクロコリントス|コリントスのアクロポリス]]'''には、街の主神である[[アプロディーテー]]の大神殿が築かれた。複数の文献が、この神殿に雇われていた千人の聖娼(遊女)について伝えている。コリントスはまた四大ギリシア競技会のひとつ、イストモス祭を開催した。
 
バッキアダイによる[[寡頭政]]を経て、[[紀元前7世紀]]には[[僭主]][[キュプセロス]]、[[ペリアンドロス]]父子により統治され、ふたたび寡頭政に移行した。また、[[シュラクサイ]]を初めとする複数の植民地を建設した。コリントスは[[ペルシャ戦争]]でのギリシア方の主要ポリスのひとつであったが、後にはこのとき同盟したアテナイと敵対し、[[スパルタ]]と[[ペロポネソス同盟]]を結んだ。[[ペロポネソス戦争]]の要因のひとつは、コリントスの植民市コルキュラをめぐるアテナイとコリントスの争いであった。軍事力に優れつつも経済的には脆弱だったスパルタの戦争継続能力維持を助けたのがコリントスの経済力であったと言われている。
 
[[紀元前146年]]、かねてより対立していた[[共和政ローマ]]から派遣された[[執政官]][[ルキウス・ムンミウス]]率いるローマ軍によりコリントスを包囲陥落させ、コリントスは完全に破壊された([[コリントスの戦い]])。その後も少数の住民がかつてコリントスがあった場所に住み着いていたことが考古学的証拠から明らかになっている。[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]は[[紀元前44年]]、植民市コロニア・ヤウス・ユリア・コロニエンシス(''Colonia Iaus Iulia Coloniensis'' コリントのヤウス・ユリア植民地の意)を再建した。これは同年カエサルが暗殺されるより少し前のことであった。
 
[[アッピアノス]]によれば、再建された都市の住民としてローマの[[解放奴隷]]が入植した。[[ローマ帝国]]の支配下で、コリントスは属州南ギリシア州(または[[アカエア]]州、[[使徒行伝]]18:12-16)の政治の中心となった。コリントスは再び繁栄し、富をもって知られた。ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が住民として混住した。