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グルノーブル高等法院の[[弁護士]]の子として生まれる。母方の実家も地元の名士であり、スタンダールは幼少期を地方の名士の子として何不自由なく暮らした。7歳の時に亡くなった母を終生、異常なまでに偏愛し続け、その反動で、実務家で[[王党派]]の父を激しく憎み続けた。そのため、スタンダールは父とは正反対のロマンチストの共和主義者として、その後の生涯を送る事になる。
 
父の期待を受けて勉学にいそしんだスタンダールは、[[1799年]]、優秀な成績で[[理工科学校]]の入学試験に合格する。しかし、慣れない[[パリ]]の生活でノイローゼになり、母方の祖父のアンリ・ガニョンの従兄弟のノエル・ダリュの家に引き取られる。ダリュの息子が当時、陸軍省事務次官をつとめていた関係から、スタンダールはダリュの口利きで陸軍少尉に任官し、[[イタリア戦役 (1799-1800年)|イタリア遠征]]に参加した。母方のガニョン家が[[イタリア]]系だったこともあり、元来、イタリアに憧れを持っていたスタンダールは遠征先のイタリアを気に入り、以後、イタリアを第二の故郷とみなすようになる。なお、祖国・フランスは父のイメージと重なるためか、生涯好きになる事は出来なかった。
 
[[軍人]]となったスタンダールだったが、実際には[[]]に乗る事も[[]]を振るう事も出来ず、もっぱら女遊びと観劇にうつつをぬかしていたと言われる。[[1802年]]、軍を辞め、輸入問屋に勤めたりしたが、[[大陸封鎖令]]によって海外貿易が途絶してしまったため、[[1806年]]、ダリュを頼って、陸軍主計官補の仕事を得、その後は[[官僚]]として順調に出世し、[[1810年]]には帝室財務監査官にまで昇進する。その後も経理畑を歩んでいくが、[[ナポレオン・ボナパルト]]の没落によって、スタンダール自身も没落する。
 
その後はフリーの[[ジャーナリスト]]として、活躍する。ナポレオン没落後、イタリアに渡り、現地の自由主義者と親交を結ぶが、やがて「スタンダールはフランスのスパイだ」という噂が広まり、失意のうちにフランスに帰国している。
 
不遇の時代に、スタンダールは[[1822年]]、44歳の時に『[[恋愛論]]』、[[1830年]]に『[[赤と黒]]』を発表している。特に、元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いた代表作『赤と黒』は、当時は評判にはならなかったが、[[フランス復古王政|王政復古]]下のフランス社会を鋭く批判したものであり、彼の[[政治思想]]の真骨頂がよく表現されている。
 
[[1830年]]、[[七月革命]]が勃発すると、自由主義者として知られていたスタンダールに再び政治の世界から声がかかるようになり、[[トリエステ]]駐在フランス領事に任命された。しかし、[[オーストリア]]の宰相・[[メッテルニヒ]]の承認が得られなかったため、[[ローマ]][[教皇領]][[チヴィタヴェッキア]]駐在フランス領事に転じた。[[1836年]]から39年まで休暇をとってパリに戻り、『[[パルムの僧院]]』を書いた。
 
[[1842年]]、パリの街頭で[[脳出血]]で倒れ、死去。墓碑銘は「[[ミラノ]]人アッリゴ・ベイレ 生きた、書いた、愛した」である。
 
== 主な作品 ==