「綱淵謙錠」の版間の差分

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Stingfield (会話 | 投稿記録)
1度目の入社試験は八一の関知していないところなので文章を改めます。「秋艸道人忌うつつごころ」が出典です。
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[[山形県]][[飽海郡]][[遊佐町]]にて漁業を営んでいた父兼吉と、[[函館市|函館]]生まれの母の1男2女の長男として移住後の[[樺太]]登富津に生まれる。綱渕家は、かつて川の両岸に綱を渡し舟を往復させた渡し守であったが、金品を強奪するのに嫌気が差し[[神官]]になったとされる家柄。小学校入学後同家は急に没落、貧しさの中であったが、漢字好きで、自作を朗読してくれた中学の国語教師の薫陶もあって物書きの素地ができたという。
 
{{和暦|1943}}旧制新潟高校に入学、[[ロシア文学]]に夢中になり、付いた渾名が「トリンコフ・ラウヘンビッチ・メチスキー(酒野煙野助平)」。生涯に渡英国詩人のT・S・エリオット気違いになったのもこの頃だった。翌春[[徴兵検査]]で甲種合格、夏休みに上京する一方[[富山県]]の不二越製鉄所で勤労動員。{{和暦|1945}}2月学徒出陣により旭川歩兵部隊に入隊、8月[[玉音放送]]を旭川師団の営庭で聴く。翌月復員命令が出て秋田に戻るが、毛布2枚、[[煙草]]の「誉 ほまれ」200本と若干の旅費という着の身着のままだった。その年の暮れに新潟の母校寮近くで下宿生活を始め、{{和暦|1946}}春東大に入るも篤志家の都合で退学を余儀なくされ、再び新潟に帰る。この年10月父はソ連軍占領下の樺太で他界、遺された母と妹は翌年6月姉夫婦と共に父の遺骨の一部を抱いて函館に引き揚げた。印刷所職工見習、図書館勤務、出版社と移るが出版社が倒産、新制高校教員に就く。この間樫枝夫人と結婚。{{和暦|1950}}恩師で歌人の[[會津八一]]の勧めなどで中央公論社を受験するが失敗している。もっとも受験には大学卒業という要件があり中退の綱淵は特別に入社試験受験を許されていた。翌年東大に再復学、新潮文庫外校アルバイトをしながら{{和暦|1953}}同社2度目の受験で入社を果たす。母親入社試験に失敗した経緯を聞いていた恩師・[[會津八一]]は紹介状を書いている。夫人それに小学校入学前の長男との8畳1間の間借生活が池袋西口でスタート。同年3月東大卒業、通学したのは実質3年間であった。
 
==編集者時代==