「マティアス (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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[[1593年]]、兄の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世によって[[オーストリア総督]]に任命され、そこで[[ウィーン司教]]であり後に自身の右腕となる[[メルキオル・クレスル]]と兄に対抗するための密約を交わした。結果、[[1605年]]にマティアスは病気の兄に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の宗教的な反逆者と通交することを許可させた。その許可により、翌[[1606年]]に[[ウィーンの平和]]が起こり、ハンガリー王国の人々の[[信教の自由]]が保障された。
 
ルドルフ2世の病気はその後ひどくなり、同年にマティアスは[[ハプスブルク家]]の家長、将来の神聖ローマ皇帝の地位が約束された。マティアスはハンガリー、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]及び[[モラヴィア]]への支配を強化するために、これらの国々と同盟することを兄に強要した。ルドルフ2世はこの要求を受け入れ、マティアスはそれらの国々と同盟を結んだ。その後[[1611年]]にマティアスはプラハに侵攻、ルドルフ2世マティアスにボヘミアの支配権を譲らせた。ルドルフ2世は翌1612年に死去している。
 
マティアスが神聖ローマ皇帝に就任して以降、彼の政策は、帝国内の[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]の融和を進めることを望んでいたメルキオル・クレスルに支配されていた。もっとも、マティアス自身、ボヘミアに新教の教会を設立することを禁止しているし、この融和政策は、妥協に反対的なハプスブルクの[[カトリック教会|カトリック]]教徒に反対された。特に弟の[[マクシミリアン3世・フォン・エスターライヒ|マクシミリアン3世]]大公の反対は著しく、カトリック強硬派の従弟・フェルディナント大公(後の[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]])の続投を望んだ。[[1617年]]、フェルディナント2世がボヘミアの新王となると、新教・旧教両派の対立は頂点に達した。[[1618年]]にボヘミアのプロテスタントの反乱が始まったことにより([[プラハ窓外投擲事件]])、マティアスはマクシミリアン3世を拘束し、融和政策を変更した。しかし、マティアスは病床につき、マクシミリアン3世達が自分の地位を奪うことを防ぐことができなかった。フェルディナントは既にボヘミア王になっていたが、マティアスは帝位にとどまった。