「里見義弘」の版間の差分

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[[永禄]]年間初めに父より実権を譲られて、義弘と改名したと言われている。
 
[[1561年]]、[[上杉謙信]]の[[北条氏康]]攻めに呼応したり、[[1564年]]の[[第二次国府台合戦]]で[[北条綱成]]と戦うなど、父・義堯と同様に[[後北条氏]]と徹底して対立した。しかし、この第二次国府台合戦で北条軍に大敗して安房に退却する。更に自分の居城であった[[上総国|上総]][[佐貫城]]までが北条水軍の攻撃を受けて奪われてしまった
 
このため、里見氏の勢力は一時、衰退したが三年後の[[1567年]]、義弘は三船山の戦いで北条軍を撃破して勢力を挽回し、安房から[[上総]]、[[下総]]にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築き上げたのである。