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三条天皇は、公卿筆頭の[[左大臣]]・[[藤原道長]]との不和から、小一条家および小野宮家の人々を側近とし、懐平も小野宮家の一員として小一条家から[[皇后]]となった[[藤原せい子|娍子]]の[[皇后宮職|皇后宮大夫]]となって引き続き近侍した。このため、長和元年([[1012年]])に道長が病気となった際に、それを喜ぶ人々の一人に挙げられた。しかし一方で道長は、娘で三条天皇の中宮となっていた[[藤原妍子|妍子]]の参内の際に、供奉しなかった数名の公卿の中に懐平の名も挙げて、年来親しくしているのにどうして来なかったのだろうと注記しており、懐平が温厚な人柄で敵を作らずに交際している様子もうかがえる。
 
その後、天皇と道長の関係は、天皇の体調の悪化が進退と絡んで重大な局面を迎え、天皇は[[相撲節会]]の勝敗に皇位の安泰を賭ける思いを懐平に吐露するなど、側近として頼りとするが、この頃から懐平も体調不良に見舞われていたようで、長和5年([[1016年]])三条天皇の退位後にしていた皇后宮大夫および[[衛門府|右衛門督]]を辞しており、翌年上皇より約1ヶ月前に死去した。享年65。
 
== 系譜 ==