「小田政治」の版間の差分

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'''小田 政治'''(おだ まさはる)は、[[常陸国|常陸]]の[[戦国大名]]。[[小田氏]]の第14代当主。[[室町幕府]]第11代将軍・[[足利義澄]]の弟に当たる
 
== 生涯 ==
明応元年(1492年)、[[堀越公方]]・[[足利政知]]の子として生まれる。父の政知は前年に死去していたため、父の死後に生まれたことになる。
また、[[室町幕府]]第11代将軍・[[足利義澄]]の弟に当たる。
小田氏第13代当主・[[小田成治]]の三男であるとする<ref>『小田事蹟』</ref>説もある。
 
小田氏第13代当主・[[小田養子とする説によると、成治]]実子嫡男である[[小田治孝]]がその弟の[[小田顕家]]が内紛を起こして死去しに暗殺されたため、政知の子を自らの[[養子|養嗣子]]に迎え、小田氏の家督を継承させた。
永正11年([[1514年]])、成治の死去により家督を継いで第14代当主となる。
 
[[享禄]]4年([[1531年]])、[[石岡の戦い]]で[[江戸氏]]を破った。天文6年([[1537年]])には[[結城政勝]]と戦ったが敗れている。他にも[[古河公方]]足利家などと戦うなど、多方面で敵勢力と戦い、小田氏の勢力を拡大したが、決定的な戦果は得られなかったようだ。天文14年([[1545年]])の[[河越夜戦]]では[[足利晴氏]]に味方して敗れており、政治の晩年ころから小田氏の衰退が始まった。
 
天文17年(1548年)に死去。享年57。跡を嫡子の[[小田氏治]]が継いだ。