「イオアニス・カポディストリアス」の版間の差分

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==経歴==
=== イオニア時代 ===
[[Image:Kapodistrias-statue-190px.jpg|frame|<small>ヨアニス・カポディストリアス</small>]]
カポディストリアスは[[イオニア諸島]]の[[ケルキラ島]](コルフ島)に生まれた。
父母ともに[[イオニア諸島]]の貴族の家柄であり、父方のカポディストリアス家の過去の当主は、[[サヴォイア家|サヴォイア公]][[カルロ・エマヌエーレ2世]]により[[伯爵|伯爵位]]を与えられている(イオニア諸島は[[15世紀]]後半から[[1797年]]まで[[ヴェネツィア共和国]]の支配下にあった)。''カポディストリア''の名は[[イタリア語]]のカーポ・ディストリア Capo d'Istria ([[イストリア]]の先端の意味、現[[スロベニア]]の都市[[コペル]])に由来している
''カポディストリア''の名は[[イタリア語]]のカーポ・ディストリア Capo d'Istria ([[イストリア]]の先端の意味、現[[スロベニア]]の都市[[コペル]])に由来している。
 
彼は[[イタリア]]の[[パドヴァ大学]]で医学と哲学を学び、1797年21歳になると故郷のケルキラ島で医師として見習いを始めた。[[ナポレオン戦争]]中の[[1799年]]に島が[[ロシア帝国]]とオスマン帝国に占領された際には軍事病院の責任者に任命された。[[1801年]]イオニア諸島はロシアとオスマン帝国の保護下で7[[イオニア七島連合共和]]として独立した。当時25歳のカポディストリアは父の代理で国務大臣の職に就いた。外国からの干渉を排するためには住民の連帯感を深める必要があったが、彼は軍隊を用いずに国内の騒乱を静めることに成功した。議会での投票により彼は首相に任命された。
 
[[1803年]]12月にはロシアから与えられたビザンティン憲法にかわる民主化憲法が制定された。首相として彼は国家組織の整備を進め、中でも教育に重点を置いた。長くヴェネツィアの支配下にあったイオニア諸島ではイタリア語が共通語として用いられてきたが、彼はギリシャ語を国家の公用語に選んだ。当時ギリシャ独立を求める文化人の多くがイオニア諸島を訪れている。しかし、[[1807年]]に[[ティルジット条約]]がロシアとフランス間に結ばれるとイオニア諸島はフランスに譲渡されることになった。カポディストリアスはロシアの外務省の招聘を受け[[アレクサフラドル1世]]のもとで外交官として働くことになった。彼は1813年にロシアの非公式の大使として[[ス]]に行き、[[ナポレン・ボナパルト |ナポレオン]]により強要された共和制によって混乱していたスイスの安定化を模索した。カポディストリスの助けもあり、スイスは普通選挙により新憲法を制定し、19の州による[[連邦制諸島]]をとることになった。1815年の[[ウィーン会議]]ではロシアの国務大臣としてヨーロッパ内の勢力均衡を重視し、フランスを[[ブルボン朝]]のもとで王制国家とすることを主張した。かれはまたスイスの憲法を諸国に認めさせ、スイスを永世中立国として承認させることに成功した。これらの外交手腕により彼はアレクサンドル1世からロシアの外務大臣に任命された
 
=== ロシア時代 ===
ロシアの外交官として務める間も彼は故郷のイオニア諸島に、そしてオスマン帝国の支配下にあるギリシャに対して注意を払っていた。1818年に彼はイギリスの支配下に入っていたイオニア諸島を訪れた。住民の間で独立に対する希望が強いことを知った彼は翌1819年に[[ロンドン]]に行きイオニア諸島の処遇に対して善処を求めたが、イギリス政府はこれを拒否している。
カポディストリアスはロシアの外務省の招聘を受け[[アレクサンドル1世]]のもとで外交官として働くことになった。彼は[[1813年]]にロシアの非公式の大使として[[スイス]]に行き、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]により強要された中央集権共和制([[ヘルヴェティア共和国]])とその崩壊によって混乱していたスイスの安定化を模索した。カポディストリアスの助けもあり、スイスは普通選挙により新憲法を制定し、19の州による[[連邦制]]をとることになった。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]ではロシアの国務大臣としてヨーロッパ内の勢力均衡を重視し、フランスを[[ブルボン朝]]のもとで王制国家とすることを主張した。かれはまたスイスの憲法を諸国に認めさせ、スイスを[[永世中立国]]として承認させることに成功した。これらの外交手腕により彼はアレクサンドル1世からロシアの外務大臣に任命された。
 
=== ギリシャ時代 ===
1821年[[ギリシャ独立戦争]]が始まった。トルコ軍と戦いつつ味方同士での対立も生じていたギリシャの独立勢力は、1927年に国民会議を開き、国内の対立に関与しておらず、列強諸国とのつながりを有するカポディストリアスを大統領に選出した。ギリシャ独立に対する賛助を求めヨーロッパ諸国をまわったあと、彼は1828年に[[ペロポネソス半島]]の都市[[ナフプリオ]]に上陸した。ギリシャ本土に足を踏み入れたのはこの時が初めてであった。トルコとの戦争に内戦も加わり、国を治めるべき政府は形骸化していた。カポディストリアスはイオニア諸島の時と同様に国家体制の整備から初め、まずは国軍の成立をおこなった。[[伝染病]]の為に隔離施設を設置し、[[サルモネラ|腸チフス]]、[[コレラ]]や[[赤痢]]などに罹患した患者を収容した。独立戦争は列強諸国の干渉によって終結し、オスマン帝国との間に和平条約が結ばれた。カポディストリアスは新貨幣を導入し、地方自治体の整備を行った。そして国民の生活水準を引き上げる為に[[ジャガイモ]]の栽培を奨励した。
ロシアの外交官として務める間も彼は故郷のイオニア諸島に、そしてオスマン帝国の支配下にあるギリシャに対して注意を払っていた。[[1818年]]に彼はイギリスの支配下に入っていたイオニア諸島([[イオニア諸島合衆国]]、[[:en:United States of the Ionian Islands]])を訪れた。住民の間で独立に対する希望が強いことを知った彼は翌[[1819年]]に[[ロンドン]]に行きイオニア諸島の処遇に対して善処を求めたが、イギリス政府はこれを拒否している。
 
[[1821年]]、[[ギリシャ独立戦争]]が始まった。トルコ軍と戦いつつ味方同士での対立も生じていたギリシャの独立勢力は、1927[[1827]]に国民会議を開き、国内の対立に関与しておらず、列強諸国とのつながりを有するカポディストリアスを大統領に選出した。ギリシャ独立に対する賛助を求めヨーロッパ諸国をまわったあと、彼は1828年に[[ペロポネソス半島]]の都市[[ナフプリオ]]に上陸した。ギリシャ本土に足を踏み入れたのはこの時が初めてであった。トルコとの戦争に内戦も加わり、国を治めるべき政府は形骸化していた。カポディストリアスはイオニア諸島の時と同様に国家体制の整備から初め、まずは国軍の成立をおこなった。[[伝染病]]の為に隔離施設を設置し、[[サルモネラ|腸チフス]]、[[コレラ]]や[[赤痢]]などに罹患した患者を収容した。独立戦争は列強諸国の干渉によって終結し、オスマン帝国との間ギリシャ優位和平条約が結ばれた。カポディストリアスは新貨幣を導入展開し、地方自治体[[1830年]]2月整備を行った。そして国民の生活水準を引き上げる為に[[ジャガイモロンドン議定書]]でギリシャ栽培を奨励し完全独立が認められた。
 
カポディストリアスは[[伝染病]]対策の為に隔離施設を設置し、[[サルモネラ|腸チフス]]、[[コレラ]]や[[赤痢]]などに罹患した患者を収容した。新貨幣を導入し、地方自治体の整備を行った。そして国民の生活水準を引き上げる為に[[ジャガイモ]]の栽培を奨励した。国家の権威を高めるため、彼は伝統的な地方の貴族・有力者の力を弱代化させる政策をとった。しかし彼は、トルコとの独立戦争に参加した指導者達の勢力を見誤った。[[ラコニア]]地方でそれらの指導者と新たに任命された知事との間に争いが生じた際、彼はロシアに軍隊の派遣を要請している。[[ギリシャ軍]]の多くは未だ独立戦争指導者たちの影響下にあった。1831年彼はマニ半島の有力者ペトロス・マヴロミハルスを反乱の疑いで投獄した。これに反発したマヴロミハルス家の族二人により、カポディトリアスは183110月9日ナフプリの聖ピリドナス教会で暗殺された。後任マン首相支配下は彼の弟でるアウグスティノス・カポディストリアスが就任しが、数ヶ月後、列強諸国によりギリシャ統治能力王制が導入されないと判断し、議会を廃止して[[バイエルン王国自由主義]]を抑えたため、自作農王子が[[オソン1世]]とし育成策も併せ王位に就くことになっギリシャ人の有力者達からの反発を受けた。
 
=== 暗殺 ===
カポディストリアは現在のギリシャでも大きな尊敬を集めている。旧[[ドラクマ]]紙幣、現在の20レプタ(ユーロセント)硬貨には彼の肖像が掲げられ、1990年後半の地方制度改革には彼の名が用いられた。
[[1831年]]、カポディトリアスはマニ半島の有力者ペトロス・マヴロミハルスを反乱の疑いで投獄した。これに反発したマヴロミハルス家の一族二人により、カポディストリアスは1831年10月9日ナフプリオの聖スピリドナス教会で暗殺された。後任の大統領には彼の弟である[[アウグスティノス・カポディストリアス]]が就任したが、数ヶ月後、列強諸国によりギリシャには王制が導入され[[バイエルン王国]]の王子が[[オソン1世]]として王位に就くことになった。また、[[1832年]]には[[コンスタンティノープル条約 (1832年)|コンスタンティノープル条約]]がオスマン帝国との間に結ばれ、独立時のギリシャの領域が確定した。
 
カポディストリアは現在のギリシャでも大きな尊敬を集めている。旧[[ドラクマ]]紙幣、現在の20レプタ(ユーロセント)硬貨には彼の肖像が掲げられ、1990年後半の地方制度改革には彼の名が用いられた。
 
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