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[[ファイル:Hermann Bahr 1904 by Emil Orlik.jpeg|thumb|right|Hermann Bahr<br />(1904 by [[Emil Orlik]])]]
{{Portal|文学}}
'''ヘルマン・バール'''('''Hermann Bahr''', [[1863年]][[7月19日]] - [[1934年]][[1月15日]])は[[オーストリア]]の作家。[[ユダヤ系]]。[[世紀末ウィーン|ウィーン]]世紀末文化]]を代表する[[青年ウィーン]](Jung Wien)の一員。[[1892年]]、[[ベルリン]]からウィーンに移り、以後、ウィーンを拠点に活動した。
 
極めて時代の潮流に敏感で、[[1889年]]『Freie Bühne』(自由な舞台)誌の創刊に参加。以来、[[自然主義]]・[[印象主義]]・[[表現主義]]などあらゆる新たな運動の先頭に立ち、[[評論]][[]]作に華やかな活動を示した。1890年『現代文学』、1891年『自然主義の克服』、1894年『反ユダヤ主義』をそれぞれ刊行している。
 
19世紀末から20世紀初頭にかけて、オーストリアの[[演劇]]は、のちに「ウィーン派」とよばれた作家たちによって新たな飛躍を遂げたが、そのグループの中核をなしたのがヘルマン・バールであった。かれは、多くの風俗劇のなかに鋭さと才知をこめて当時のウィーンの雰囲気を描いた。同じころ、詩作の面でも伝統的なものとの絆を保持しながらも新しい芸術の形式を生み出そうという気運のもとで「[[ウィーン詩派]]」がかたちづくられたが、その中心人物でもあり、[[ホフマンスタール]]や[[リヒャルト・ベーア=ホフマン]]に多大な影響を与えた。
 
のちオーストリアの伝統的[[カトリック教会|カトリック]]文化に傾倒した。
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{{DEFAULTSORT:はある へるまん}}
[[Category:オーストリアの小説家]]
[[Category:オーストリアの劇作家]]
[[Category:ユダヤ系オーストリア人]]
[[Category:リンツ出身の人物]]
[[Category:1863年生]]
[[Category:1934年没]]