「マッタ・アヴ・スヴェーリエ」の版間の差分

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[[スウェーデン]]の王族[[カール (ヴェステルイェートランド公)|ヴェステルイェートランド公カール]]([[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]の三男)と、[[デンマーク]]王女[[インゲボー・ア・ダンマーク (1878-1958)|インゲボー]]([[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]]の次女)の次女として、[[ストックホルム]]で生まれた。[[ベルギー]]王妃[[アストリッド・ド・スエード|アストリッド]]の姉にあたる。
 
1929年3月に、従にあたるノルウェー王太子オーラヴと結婚。結婚後は、子供たちのために服を自身で縫うなどの姿が国民の共感を得、人気も高かった。1939年にはアメリカを訪問し、[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]と夫人[[エレノア・ルーズベルト|エレノア]]と交友関係を結んだ。
 
1940年、[[ドイツ]]軍がノルウェーに侵攻すると、マッタは子供たちを連れて故国スウェーデンへ亡命した。義父[[ホーコン7世 (ノルウェー王)|ホーコン7世]]と王太子オーラヴは抗戦するが敗退し[[イギリス]]へ逃れ、そこで亡命政府を樹立した。マッタ母子は、中立国スウェーデンでは歓迎されたとは言えず、またドイツ軍がわずか3歳の長男ハーラル(のちの[[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]])をノルウェー王にしようとしていることを知り、アメリカ大統領夫妻の招きに応じて、[[フィンランド]]からアメリカ海軍の軍艦で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ向かった。マッタと子供たちは[[ワシントンD.C.]]に住んだ。彼女は[[赤十字]]の活動に加わり、ノルウェーの窮状を訴えて連合国の援助を求めた。