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'''葛山 信貞'''(かつらやま のぶさだ、生年不詳 - [[天正]]10年([[1582年]])3月)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[駿河国]]葛山領の[[分郡領主]]で、[[葛山城]]城主。父は[[甲斐国]]の[[戦国大名]]である[[武田信玄]]で六男(武田氏系図類による)、生母は[[油川夫人]]と伝わる。通称は十郎、初名は義久。「信」は武田氏の[[通字]]。生年は不詳であるが、[[永禄]]2年([[1559年]])以前の出生と推定されている。[[武田信虎]]の孫
 
駿相国境に位置する駿河[[駿東郡]]領主である[[葛山氏元]]の養子となり、氏元の次女「おふち」を正室に迎え葛山領を継承する。信玄前期には、[[信濃侵攻]]において服従させた[[信濃国]]名族に対し実子に[[名跡]]を継がせて懐柔させる支配政策を行っており、信貞の異母兄の[[武田勝頼|勝頼]]は[[諏訪氏]]を、同母兄の[[仁科盛信|盛信]]は[[仁科氏]]をそれぞれ継承しており、[[葛山氏]]を継承した信貞も駿河における同様の支配方針であると位置づけられている。
 
== 略歴 ==
武田氏は信玄後期に南進政策へと転換し、永禄11年([[1568年]])には駿河[[今川氏]]との甲駿同盟が破綻し[[駿河侵攻]](第一次)が行われる(甲駿同盟破綻の経過で異母兄の[[武田義信]]が廃嫡されている)。武田勢が駿河へ侵攻すると、駿東郡領主の葛山氏元をはじめとした今川家臣も武田方に内応し、相模の[[後北条氏]]が駿相同盟に基づいて今川領国に出兵したため葛山領は北条勢により接収された。氏元は[[富士郡]]へ逃れ[[元亀]]元年([[1570年]])3月以降には動向がわからなくなるが、元亀2年([[1571年]])には武田方による駿東郡の[[深沢城]]が奪還されると旧葛山領は回復し、同年には[[甲相同盟]]の復活で支配も安定化した。元亀3年([[1572年]])には信玄による葛山領での発給文書が見られ、正確な時期は不明だがこの頃には信貞の葛山氏継承が懸案されていたと考えられている。
 
継承直後の信貞は10代前半と推定されており、葛山領での発給文書も多くが信玄[[判物]]であることから、信貞は葛山城には在城せず[[甲府]]在府であったと考えられている。現地での政務は葛山家臣であった[[御宿友綱]]は後見役として現地で政務を代行していた文書が見られるが、武田氏領国のうち葛山領は信玄・勝頼の判物が多いことが指摘されており、葛山氏の分郡領主化は完成せず支配も安定的でなかった可能性が指摘されている。
 
天正10年(1582年)、[[織田信長]]の[[武田征伐]]により、兄の[[武田勝頼]]は甲斐国内において滅亡し、信貞も甲府の[[甲斐善光寺]]において自刃した。これにより葛山氏も滅亡した。
 
== 参考文献 ==