「ジョセフ・フォン・スタンバーグ」の版間の差分

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彼の父親は元陸軍の兵士で、ほとんど家庭を省みなかったという。7歳の時、家族と共に[[アメリカ合衆国|米国]]に移民、3年後ウィーンへ戻り、14歳で再び[[ニューヨーク]]へ帰る。ハイスクールを貧困のため中退、レース屋、婦人帽子屋、織物業者などを転々とする。本来は作家志望だったがアルバイトの映写係をきっかけに映画の世界へ転じる。
 
[[ハリウッド]]で、フィルム補修技師、[[撮影技師|撮影助手]]、[[編集技師]]、[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]をつとめ、若い俳優ジョージ・K・アーサーに資金を調達してもらい、わずか3,500ドルで『[[救ひを求むる人々]]』(1925)を製作した。この映画は先輩[[エリッヒ・フォン・シュトロハイム]]の[[自然主義]]の流れをくむが、渋い内容に映画会社は全く取り合わない。[[チャーリー・チャップリン]]邸で強引に持ち込んで見てもらい、当時チャップリンが創業者の一人であった[[ユナイテッド・アーティスツ]]が配給し上映した。チャップリンに目をつけたのは、彼が貧乏人に理解があると睨んだためであった。次に[[パラマウント映画]]でハリウッド・デビュー。意識してドイツ系の格式ばった姓の前置詞「[[フォン_(前置詞)|フォン]]」を名乗り、ジョセフの綴りも意識してドイツ語にこだわる。[[ギャング]]の生活に哀愁を込めた米国映画最古のギャング映画と言われる『[[暗黒街]]』(1927)、社会の底辺に住んでいる人々の純情な恋模様を描いた『[[紐育の波止場]]』(1929)は両作品とも興業的に成功した。
[[File:Marlene Dietrich in Morocco trailer 3.jpg|thumb|left|200px|『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』のディートリッヒ。]][[File:Marlene Dietrich (26).jpg|thumb|left|200px|『[[上海特急|上海特急]]』のディートリッヒ。]]
 
映画は音の出る[[トーキー]]時代を迎え、[[ドイツ]]の大[[プロデューサー]]、[[エーリッヒ・ポマー]]は、ドイツ映画界最初のトーキー映画として『[[嘆きの天使]]』(1930)の監督に、ドイツ在住経験のあるスタンバーグに白羽の矢を立てた。世間知らずの真面目な高校教師([[エミール・ヤニングス]])が[[キャバレー]]のダンサーのローラローラ([[マルレーネ・ディートリッヒ]])の色香の虜になり、日参するが、学校を追われ、旅興行の道化役者となり、最後は捨てられた死体が高校の教室に転がる。スタンバーグを代表する傑作で、まさに退廃的な美貌と脚線美の新人の女優ディートリッヒと手を携えてハリウッドに戻った。この時期、エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー、フリッツ・ラングらドイツからハリウッドに移った監督は数多いが、ほぼアメリカ育ちで、いわばドイツに逆上陸した彼の例は非常に珍しい。