「甲越同盟」の版間の差分

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同盟交渉に際して武田方では主に親族・家老層であり、信越国境に配置された武田信豊や[[春日虎綱]](高坂昌信)・[[春日信達|信達]]親子のほか譜代家老の[[小山田信茂]]、勝頼側近である[[跡部勝資]]や[[長坂光堅]]、越後に居住した[[長井昌秀]]らが取次に携わっており、甲越同盟に際した外交取次は武田家中において家格の高い武田信豊ら一門と当主側近の組み合わせになっている点が指摘され、儀礼面を一門、実務面を当主側近が分担して担当していたと考えられている(丸島 2000)。
 
なお、甲越同盟締結に関する武田氏側発給文書は[[上杉家文書]]に多く残されているが、上杉側の発給文書は武田氏の家伝文書が散逸しているため残存数が少なく、上杉側の取次に関しては不明な点が多いが、上杉側から正式な使者の派遣以降の武田氏側から発給された書状は、景勝宛以外はすべて[[新発田長敦]]、[[竹俣慶綱]]、[[斉藤朝信]]のいずれか、あるいは三名宛となっており、当時景勝政権中枢を担っていたこの三人が、甲越間武田氏と窓口とされ取次を務めていたのは明らかが指摘されてい<ref>片桐昭彦「上杉景勝の権力確立と印判状」(初出:『新潟史学』45号、2000年/所収:『戦国期発給文書の研究』高志書院、2005年)</ref>。
 
== 甲越同盟の影響 ==