「日野市朗」の版間の差分

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[[1956年]][[中央大学]][[法学部]]法律学科を経て、中央大学[[大学院]]を修了する。[[1961年]]27歳で[[旧司法試験]]合格し[[司法修習]]16期(同期に[[佐々木秀典]])経て[[1964年]][[仙台市]]で[[弁護士]]を開業する。父親の影響から社会的弱者の側に立つ市民派弁護士として活躍し、[[1973年]]仙台弁護士会副会長に就任する。父吉夫が健康上の理由で引退を決意すると、社会党委員長だった[[成田知巳]]の勧めで[[1976年]][[第34回衆議院議員総選挙]]に旧宮城2区から日本社会党公認で立候補し6万7338票を獲得し当選する。当選回数通算8回。[[1986年]][[第38回衆議院議員総選挙]](衆参同時選挙)では、まさかの落選を喫すが、[[1990年]][[第39回衆議院議員総選挙]]で当選し、国政に復帰する。社会党では右派に所属した。[[1991年]][[田辺誠]][[日本社会党委員長|委員長]]を首班とする[[社会党シャドーキャビネット]]で初代農水相([[1992年]]一部改造で環境庁長官兼科技庁長官に横滑り)[[1993年]][[山花貞夫]]委員長の下で政審会長に就任する。[[1996年]][[第1次橋本内閣]]で[[郵政大臣]]として入閣する。同年社会党が[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]に改称し副党首となるが、社民党を離党し[[民主党 (1996-)|旧民主党]]に参加した。民主党では、代議士会長などを務めた。
 
[[小選挙区比例代表並立制]]が成立し、地元石巻市を中心とする[[小選挙区]]宮城5区が地盤であったが、[[新党さきがけ]]出身の[[安住淳]]との間で候補者調整、選挙協力がなされ、1996年[[第41回衆議院議員総選挙]]で比例東北ブロックに回った。当初、日野と安住は、[[小選挙区]]と[[比例区]]を交代して立候補する[[コスタリカ方式]]という約束を結んでいたが、日野後援会の高齢化などから、小選挙区は安住、比例区は日野という棲み分けができる。
 
2003年7月6日[[癌]]のため死去。69歳。
 
父吉夫以来、農村の生活向上を目標とし、月に1度は[[鳴子町]](現[[大崎市]])にある「農民の家」([[農協]]系の[[温泉]]保養施設)で無料法律相談会を実施していた。
 
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