「陪審法」の版間の差分

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== 復活論と裁判員制度 ==
終戦後、占領軍は、当初、日本の民主化政策として陪審制は不可欠と考えており、政府の憲法第2次試案までは、「陪審審理は、死刑を科し得る罪について起訴された者にはすべてに、重罪について起訴された者にはその者の請求により、与えられる。」との規定があった。しかし日本政府は陪審制の明文化には消極的であり、[[兼子一]]の違憲論もあり、[[1947年]](昭和22年)4月16日公布の[[裁判所法]](同年5月3日施行)では、別に法律で刑事事件の陪審制を設けることを妨げないと規定されるにとどまった(同法3条3項)<ref>丸田 (1990) 152-153頁。</ref>。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が陪審制の復活を強く主張しなかったことに関しては、立法・司法課長であったドイツ人のオップラーAlfred C.Oppler(日本語訳は、または、オプラー)が陪審制について懐疑的であったことも指摘されている<ref>フット (2007) 72頁。</ref>。
 
その後、一部で陪審制の復活や[[参審制]]の導入を主張する声があったが、1979年から1989年にかけて、[[免田事件]]、[[財田川事件]]、[[松山事件]]、[[島田事件]]で[[再審]]無罪判決が出た(4大死刑[[冤罪]]事件)ことをきっかけに、刑事裁判制度に対する批判が高まり、[[弁護士]]・[[法学者]]を中心に陪審・参審制導入論も盛り上がった。ちょうど同じ時期、1988年に、[[最高裁判所長官]][[矢口洪一]]が[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]の刑事局に対し陪審制の導入の可否を検討するよう指示した。しかし、冤罪事件への世間の関心が薄れるとともに、導入論も下火となった<ref>フット (2007) 264頁。</ref>。