「井上節山因碩」の版間の差分

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次いで天保15年に井上幻庵因碩から丈和に依頼して、一旦葛野忠左衛門に戻した後に井上家養子となり、翌年跡目となって井上秀徹となる。幻庵因碩とは秀徹先で多くの師弟対局を行い、特に六段時[[弘化]]2年(1845年)9月の秀徹中押勝の出来を見て幻庵は退隠を決意したといわれる。弘化3年[[御城碁]]に初出仕、[[安井算知 (俊哲)]]に先番3目勝ち。御城碁には計3局を出仕した。またこの時期、本因坊門人との対局も多く、安田秀策([[本因坊秀策]])には秀策先相先の[[囲碁の手合割|手合]]だった。
 
[[嘉永]]元年(1848年)に幻庵因碩が隠居し、秀徹が十二世井上因碩となる。嘉永2年、門人嶋崎鎌三郎自身の内儀と姦通したとの疑いをかけて斬殺。鎌三郎の父が井上家に縁のある[[細川氏|細川家]]家臣であったことにより内々に済ませたものの隠退させられることとなり、'''節山'''を名乗って[[相州]][[町田市|相原]]で療養。井上家は林家門人の[[井上松本因碩|松本錦四郎]]が継いで十三世となる。節山はその後復帰することはなく36歳で没する。
 
弘化3年には、[[赤星因徹]]の著書「棋譜・玄党」と「手談五十図」の合本「玄覧」を出版している。