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文禄・慶長の役より移行編集
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'''郭再祐'''(かく さいゆう<ref>笠谷和比古・黒田慶一共著『秀吉の野望と誤算 文禄・慶長の役と関ヶ原合戦』文英堂2000年6月、p62</ref>、クアク・ジエウ<ref>中野等著『文禄・慶長の役』吉川弘文館2008年2月、p90</ref>、、{{Lang|ko|곽재우}}、[[1552年]] - [[1617年]])は、[[文禄・慶長の役]]時の[[李氏朝鮮]]の[[義兵]]の大将。字は季綬。
 
==概要==
[[慶尚南道]]を流れる南江にある[[宜寧郡|宜寧]]の世干村で裕福な地主の子として生まれた。郭越の三男で3歳の時に母が死んだ。彼は裕福な地主の子で、若い頃に[[科挙]]試験に挑戦するが失敗している。
 
郭再祐は日本軍侵攻に対抗する[[文禄・慶長の役]]における最初の義兵軍であった。彼らは[[ゲリラ]]戦を展開し、日本の輸送船などの攻撃に成果をあげる。さらに[[影武者]]戦術を使いる[[安国寺恵瓊]]軍を撃退すると次第に名声が高まり、部隊も増強されていった、また第一次[[晋州城攻防戦]]で伏兵を使いる日本軍を包囲撃退する。この時彼は赤い緋緞で作った軍服を着て争った。その理由で彼に「天降紅衣将軍」という異名が生じた。
郭再祐は日本軍侵攻の9日後に一族、村民などを集めて、宜寧村防衛の組織をつくる。これは[[文禄・慶長の役]]における最初の義兵軍であった。
 
戦後、ずっと官職を拒否して[[永昌大君]]の救命の上書を奉って都落ちした。墓は[[慶尚南道]]達城郡求智面新塘洞にある。諡号は忠翼公
彼らは[[ゲリラ]]戦を展開し、日本の輸送船などの攻撃に成果をあげる。さらに[[影武者]]戦術を使いる[[安国寺恵瓊]]軍を撃退すると次第に名声が高まり、部隊も増強されていった、また第一次[[晋州城攻防戦]]で伏兵を使いる日本軍を包囲撃退する。この時彼は赤い緋緞で作った軍服を着て争った。その理由で彼に「天降紅衣将軍」という異名が生じた。
 
==郭再祐の抗戦==
戦後、ずっと官職を拒否して[[永昌大君]]の救命の上書を奉って都落ちした。墓は[[慶尚南道]]達城郡求智面新塘洞にある。諡号は忠翼公。
日本軍の猛攻に対して、朝鮮正規軍は町を放棄した<ref name="turnbull108-9"/>。正規軍が退去してから、郭再祐は日本軍侵攻の9日後に一族、村民など50人を集めて、宜寧村防衛の組織をつくる。これは[[文禄・慶長の役]]における最初の義兵軍であった。
 
日本軍三番隊は[[昌原市|昌原]]からまっすぐ[[尚州市|尚州]]に向かった<ref name="turnbull110-5">Turnbull, Stephen. 2002, p.&nbsp;110-5.</ref>。郭再祐は、すでに放棄されていた政府の倉庫から、彼の部隊の補給物資を得たが、これを受けて慶尚道の長官[[キム・ス]]は郭再祐を謀叛人とみなし、解散を命じた<ref name="turnbull110-5"/>。
現在、[[大韓民国|韓国]]宜寧郡では、郭再祐らを称える'''義兵祭'''があり、郊外には'''義兵公園'''もある。
 
将軍が他の地主にも支援を求めており、王に直接の訴えを送っているような時であったが、その長官は、すでに日本軍との間でかなりの混乱が始まっているにも関わらず、郭再祐を討つための軍隊を派遣してきた。しかしながら、首都から役人が到着して慶尚道で兵を集め始めたとき、この役人が郭再祐の近くに住んでいて郭再祐の事を実際に知っていたので、この役人が郭再祐を長官から救った郭再祐は洛東江と南江にある高い葦原の中でゲリラ戦を展開した。
 
 
陸上ではこうした戦術が行われ、海上では李舜臣の水軍が守っていたため、日本軍は全羅道には容易に入れなかったといわれる<ref name="turnbull110-5"/>。
 
===戦後の義兵の境遇===
戦争初期から、朝鮮人の一部は「義兵」と呼ばれる[[民兵]]を組織し侵攻に対抗した。これらの武装集団は朝鮮各地にて挙兵し、戦闘・[[ゲリラ戦]]・[[攻城戦]]や、戦時に必要になる輸送や建設作業に参加した<ref name="turnbull108-9"/>。 民兵は主に、朝鮮正規軍の敗残兵、[[両班]]とその同調者で構成される[[義兵]]、[[僧兵]]であった<ref name="turnbull108-9"/>。
 
文禄の役の間、朝鮮半島の中では全羅道だけが侵攻を免れた地域として残されていた<ref name="turnbull108-9">Turnbull, Stephen. 2002, p.&nbsp;1-8-9.</ref>。李舜臣による海上での警備活動が成功したことに加えて、義勇兵の活動も日本軍を圧迫したため、日本軍は全羅道を避けて他の優先順位の高い目標へ向かった<ref name="turnbull108-9"/> 。
 
しかし、義兵を束ねる諸将が総じて両班層(貴族階級)出身であるのに対して、配下にいた兵士の大部分が身分解放の要求をもつ農民や、[[奴婢]]あるいは李朝においては[[賤民]]身分に貶められていた僧侶などの被圧迫階級であったが、命を賭して貢献したにも関わらずその望みは叶えられず、戦争が終わると義兵たちは再び過酷な収奪を受ける農奴的身分へと戻され、僧侶もまた賤民のままとされた。
 
対日戦の過程で官職を授けられた義兵将も、戦役後には党派間の政争に組み込まれ、その多くは権力者らの猜疑心や妬みからその地位を追われ、果ては流刑か死刑かの不遇な生涯を送ることになった。<ref>『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』金奉鉉/彩流社</ref>
 
 
==その他==
墓は[[慶尚南道]]達城郡求智面新塘洞にある。諡号は忠翼公。
 
現在、[[大韓民国|韓国]]宜寧郡では、郭再祐らを称える'''義兵祭'''があり、郊外には'''義兵公園'''もある。
== 脚注 ==
<references />
 
==文献==
*中野等『文禄・慶長の役』戦争の日本史16、吉川弘文館、2008年2月、284-289頁。
*鄭 杜煕、李ギョンスン、金 文子、小幡倫裕編『壬辰戦争』明石書店 (2008)
*笠谷和比古・黒田慶一共著『秀吉の野望と誤算 文禄・慶長の役と関ヶ原合戦』文英堂2000年6月
*Rockstein, Edward D., Ph.D. ''Strategic And Operational Aspects of Japan's Invasions of Korea 1592-1598'', 1993-6-18. Naval War College, Newport, R.I.
*Swope, Kenneth M. "Crouching Tigers, Secret Weapons: Military Technology Employed During the Sino-Japanese-Korean War, 1592-1598", ''The Journal of Military History'' pp.&nbsp;69 (January 2005): pp.&nbsp;11–42. (C) Society for Military History.
*Turnbull, Stephen. ''Samurai Invasion: Japan's Korean War 1592–98''. London: Cassell & Co, 2002, ISBN 0-304-35948-3.
 
 
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