削除された内容 追加された内容
金平和 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Harani0403 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''奥野 健男'''(おくの たけお、[[1926年]][[7月25日]]-[[1997年]][[11月26日]])は、[[文芸評論家]]・化学技術者。[[多摩美術大学]]名誉教授。父は最高裁判事の[[奧野健一]]
 
== 経歴 ==
[[東京]]に生まれる。旧制[[東京府青山師範附属小学校(現在の[[|東京学芸大学府青山師範附属世田谷小学校]]を経て、旧制[[麻布中学校]]在学中、小山誠太郎に感化され自然科学、就く天文学、有機化学に興味を抱く。同時期、[[吉行淳之介]]や[[北杜夫]]を知る。[[{{jdate|1947年]]}}[[東京工業大学]]附属工業専門部化学工業科卒、[[1953年]]東工大化学専攻(旧制)卒。[[遠山啓]]に科学全般を、[[岩倉義男]]に高分子化学を学ぶ。在学中の1952年に『大岡山文学』に『[[太宰治]]論』を発表し、注目される。卒業後、[[東芝]]に入社し、[[印刷回路積層板]]の[[研究]]から[[トランジスタ]]の開発に取り組む。[[1959年]]に[[大河内記念技術賞]]を、[[1963年]]に[[科学技術庁]]長官奨励賞、[[1964年]]に[[特許庁]]長官賞受賞を受賞する。
 
[[1954年]]に[[服部達]]らと『現代評論』を、[[1958年]]に[[吉本隆明]]らと『現代批評』を創刊し批評活動を行なう。[[1960年代]]前半に、「政治と文学」という[[プロレタリア文学]]以来の観念を厳しく批判し、[[民主主義文学]]を否定したことで、文学論争の主役となった。
12行目:
多摩美術大学の教員として広い視点から宇宙的な自然科学、そして芸術文学の本質を少しでも学生に植え付けようと30余年に渡り尽力した。著作の装丁の殆どが多摩美大出身者によってなされている。
 
[[1991年]]に多摩美術大学理事。[[{{jdate|1997年]]}}退職。同大学名誉教授。
 
次女の奥野美果は工芸作家。