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== 正倉院文書の研究 ==
[[江戸時代]]後期、穂井田忠友([[平田篤胤]]に学んだ国学者)によって写経所文書の紙背にある史料が注目され、[[1833年]]-[[1836年]]([[天保]]4-7年)、元の戸籍・正税帳などの状態を復元すべく一部の文書が抜出されて、45巻(正集)にまとめられた。[[明治時代]]以降は[[内務省 (日本)|内務省]]、[[宮内省]]により整理が続けられ、667巻5冊の形態になった。これにより文書の研究は大きく進んだが、一方で写経所文書は断片化されてしまい、かつての形態とは異なってしまっている。
 
建築史家・[[福山敏男]]は写経所文書に含まれていた<!--?-->石山寺関係史料の復元考察を行い、[[石山寺]]の造営過程(761年-)を浮かび上がらせた(「奈良時代に於ける石山寺の造営」1933年、『日本建築史の研究』所収)。福山の研究以降、写経所文書の研究も進められている。