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== 海辺のカイサリア ==
'''海辺のカイサリア'''([[ギリシア語]] : Παράλιος Καισάρεια, [[ラテン語]] : Caesarea Maritima, [[ヘブライ語]] : Qisariyyah)は'''カイサリア・パレスティナ'''(ギリシア語 : Καισάρεια της Παλαιστίνης, ラテン語 : Caesarea Palaestina)とも呼ばれた都市で、[[ヘロデ大王]]が[[紀元前25年]]ごろから[[パレスチナ|パレスティナ]]の[[テルアビブ]]の近くに建設した。
 
もともと存在した「ストラトンの塔」(ラテン語 : Turris Stratonis)という小要塞をもとに大増築し、都市とそれに付随する人工港湾まで建築した。[[紀元前13年]]には市民が入植し、パレスティナではもともと良港が少なかったため、カイサリアは重宝され、[[ユダヤ人]]や[[ギリシャ人]]など多民族の混住地となった。[[ローマ帝国]]もカイサリアの海上交通の利便さに目をつけてここを[[ユダヤ属州]]の首都とし、ローマ総督と軍隊の駐屯地とした。カイサリアは栄え、[[新約聖書]]の『[[使徒行伝]]』にも登場する。最初の[[異邦人]][[キリスト教徒]]はこのカイサリアで誕生したのである。
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[[130年]]代の[[バル・コクバの乱]]をローマ軍が鎮圧し[[エルサレム]]を破壊すると、カイサリアはパレスティナ第一の都市となり、初期の[[キリスト教]]の中心もエルサレムからカイサリアへ移った。[[4世紀]]の歴史家[[エウセビオス]]はこの街の[[大司教]]であり、[[オリゲネス]]もこの街に滞在して著作を書いている。
 
カイサリアは[[7世紀]]以降、[[ペルシア帝国]]や[[イスラム教]]徒の侵攻によって破壊されたが、なんとか存続し、[[12世紀]]の[[十字軍]]の時代には十字軍によって植民都市とされている。その後も[[イスラム教徒]]とキリスト教徒の攻防の地となったが、やがて放棄されて廃墟となった。
 
近くにはセドット・ヤム [[w:Sedot Yam|Sedot Yam]]、アラブ人のジスル・エッ・ザルカー [[w:Jisr ez Zarqa|Jisr ez Zarqa]]、オル・アキバ [[w:Or Akiva|Or Aqibha]] などの都市がある。